『地上で神の国を味わう』 
新約聖書 使徒の働き 20章1-12節

 ファニー・クロスビーという目の不自由な讃美歌作家がいました。彼女は小さなとき、医師の治療ミスで視覚を失ってしまいます。両親とも早く死に別れ、祖母にイエス様を教えられながら育ちましたが、その胸中はいかばかりでありましたでしょうか。
 長じてからのある日、彼女は教会で人々の歌う、“Alas! And my Savior bleed”(ああ、主は誰がため)を聴きながら、翻然と悔い改めます。それ以後、彼女は救われた喜びを詩に書き続けました。行方が分からなかった医師に会って、どうにかして有難うといおうと、ずいぶん探しまわったと伝えられています。その彼女の歌った讃美歌のひとつに、
“Blessed Assurance”という今も世界中で愛唱される讃美歌があります。その一節で、彼女はイエス様の十字架の血により罪を贖われ、救いに与るものとされたことは、やがて天にて神様とお会いする時の栄光を、もう、今すでに味わっていると歌っています。その具体的なときこそ、日曜日の礼拝です。

 旧約聖書にはイエス・キリストについての預言が何百とあります。そして新約聖書をみますと、それらのほとんどが、その通りに成就していることを見せられて驚きます。それは確率論からいえばありえないこと、不可能なことなのですが、確かに成就したことを歴史は証明しています。しかし、まだ成就していない預言があります。それはイエス・キリストの再臨です。
 イエス・キリストは2000年前、私たちを救うためにおいでになりましたが、こんどは、裁くためにおいでになられます。そこから終末とか、世の終わりということばがでてきました。聖書の教えをちょっと盗んで違うものを作り上げている新興宗教、たとえば、ものみの塔とかエホバの証人と称するアメリカでできた宗教団体は、その終末の日を彼らに都合よく曲げて教え、脅したりしていますが、それらは彼らが作った架空の物語でまったくの偽りです。かれらの熱心さだけに惑わされないでください。→ローマ 10章1〜3節。

 イエス・キリストに従う者たちは、週の初めの日、すなわち日曜日に、トロアスでパウロたちがパンを裂く、すなわち礼拝をささげるために集まったように今も集まっています。 この礼拝の中心はパウロがコリント 第一の手紙 11章でも説明していますように、主がお招きになる「主の食卓」です。

 礼拝とは牧師のお話を聞きに行くものではありません。だれか親しい人と会いに行くためでもありません。説教は「主の食卓」の意味を解き明かすものです。それを感謝する祈りがあり、讃美があり、私たちのすべてを捧げるときがあります。その一つ一つは決して、よどみなく流れるプログラムの一部分ではありません。全員がそれらを通して神の前にひれ伏し、感謝するときです。この一週間、また、お仕えしますとの献身のときです。

 教会は地上における神の國といわれますように、礼拝はやがてイエス様が再臨され、この世がまったく新しくなる日、新しい天において神とともにいる歓喜を今に味わうときです。讃美は天に満ち満ちている讃美に、そこにいるもの全員が今、加わることです。聞きほれる宗教音楽ではありません。祈りはやがて天にて神と顔と顔とを合わせてするお話するときを、今、味わうときです。献金はその神に親しく、今、お捧げする特権のときです。
聖歌 「罪とがを赦され」、または讃美歌 「ああうれしわが身も」のことばを味わってください。そして、あなたもぜひ、キリスト教会の礼拝においでください。心からお待ちしています。

2004.11.07(日)


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