『熱心にみことばを聞き、そして、聖書を調べた。』 
新約聖書 使徒の働き 18章24-27節

 今日、お読みいたしました聖書の箇所の少し前、17章の11節ですが、ベレヤの人々はパウロの語るみことばを聞き、果たしてそのとうりかどうかと毎日、聖書(その当時は旧約聖書)を調べていたと書かれています。
 これはキリスト教会にとり非常に大切なことです。キリスト教の中心はいうまでもなく、イエス・キリスト。教会のかしらはイエス・キリスト様、そのお方です。教会はそのお方を礼拝し、そのお方にお聞き従います。具体的には、昨日も今日も、そしてこれからも変わることのない神のみことば、聖書にお聞きし、聖書を信仰と生活の規範として生きていくのです。
えてして、大先生といわれる牧師さまがいますと、信者はその人を敬い、その人の話だけを聞いて育ちまして、キリストのではなく、その人の弟子となってしまうことがありましたし、これからもその危険性があります。

 キリスト教の歴史を振り返ってみますと、ときに、その教師の都合にあわせるために、信者から聖書をとりあげたこともありました。驚くことに、信者が聖書を持っているという理由だけで、教会から罰せられた時代すらあったのです。そこまでいかなくとも、自分勝手に聖書を読ませない、教会の指定する読み方だけを強制することもありました。なぜかといいますと、その教師が聖書の教えから遠く離れていることを教えていたとして、信者が自分で聖書を読めば、その偽りがわかってしまうからでした。

 今日の聖書の箇所にありますように、プリスキラとアクラが大説教者アポロを自宅に招き、神の道を正確に彼に説明したできごとは、まさに神のみ旨、今の私たちに対する大きな教訓であります。
 もちろん、「導く人がいなければ、どうして分かりましょう。」とのカンダケの高官の叫びもありますように(使徒の働き 8:31)、教える人は大切です。プリスキラとアクラは、雄弁なアポロを否定したのではありませんでした。アポロのもつ大切な賜物をよりよく、活かすためにお手伝いをしたのです。 パウロは、愛する弟子テモテに、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」と教えています。
 それと同時に、パウロはが「あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていない。そして、あなたがたが十分に理解することを望む。」とコリント T 1:13に書いたことも注意してください。どうして、私たちが聖書を読んで理解できるのでしょうか。それは、イエスさまが、お約束くださいましたように、聖霊の神があなたを導いてくださるからです。ヨハネ 14:26。

 聖書は、「いのちのパン」といわれますように、日ごとの聖書はあなたの生活を豊かにしてくださいます。あなたが日ごとに聖書に親しんでいますとき、礼拝での説教や、聖書クラスで聴く、お話がすっと胸に入ってくることでしょう。また、プリスキラとアクラのように、柔和な心で兄弟姉妹のあやまりをも、正してあげることもできましょう。ガラテヤ 6:1〜2。
 さあ、今週から、ぜひ、あなたが毎日、聖書を開く習慣をつけてください。聖霊の神は喜んで、そのときをお待ちになっておられます。

2004.10.17(日)


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