『真夜中の祈り、讃美を導いたもの』 
新約聖書 使徒の働き 16章25-34節

 私たちの信じる神は、とことん信じるに足る神です。私たちが不真実でも、このお方は常に真実なお方です。この神はご自身を否むことができないからです。信じるとは100%より頼むことです。ともすると、私たちは95%よりたのみ、あとの5%は自分でカヴァーしようとしているのではありませんか。その不徹底さがあなたに不満をもたらしているのです。とことん、信じる先にある計り知れぬ喜びを味わった人、それが今日のパウロたちです。

 ピリピについたパウロ一行は勇んで福音伝道を始めましたが、占いの霊につかれた女奴隷のことで、彼女の所有者に恨まれ、偽りの罪状で町の長官のところに訴えられます。長官は調べもせず、パウロとシラスを捕らえ、不当にもむちを振るい、足枷をし、牢獄に入れてしまいました。
 その夜中、囚人たちは大声に目を覚ました。それは、昼間、血だらけになって引きずってこられ、奥の獄房に放り込まれた男たちだとすぐに分かりました。はじめは気が狂ったのかと思ったかもしれませんが、その男たちはなんと感謝の祈りをささげ、神をたたえる讃美の歌を歌っているではありませんか。当時は通俗語のギリシャ語が普通、使われていましたので、囚人たちにも分かったのです。囚人たちはその言葉の意味が分かると驚き、やがて畏れをもって聞き入っていました。
 そして地震が起き・・・それ以後のできごとは、今日の聖句、新約聖書 使徒の働き 16章25節から34節をぜひ、ご覧になってください。

 自分の当初の意図に反し、ここまで福音伝道に導かれたと思った途端に遭った思いもかけぬ災難、まだ背中の傷は熱を持ち、耐えられぬほどであったでしょう。しかし、そのパウロとシラスを祈りに導き、神をたたえさせたものは、「とことん、信じきる信仰」でありました。
 ピリピに導かれた神のご計画をパウロたちは信じきっていました。たとい、身は獄中にあろうとも、自分では分からない方法で福音は前進するとの確信をいだいていました。事実、そこに建てられたピリピの教会はそれ以後のパウロたちの働きを助ける伝道の教会となったのです(ピリピ 4:14〜16)。 このようなパウロたちへの神のお取り扱いは限りなくありました。コリントの教会に送った手紙 第一 10章13節は、その中のひとつの証であります。このように書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会せるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

 もう、30数年も前のことですが、3年と4年になる息子を連れて、島々谷を登ったことがあります。ほとんど人に会わない谷でした。小さい時から奥多摩の山などを歩いていましたから、私は彼らが登れると確信していました。途中、岩魚留小屋で一泊しましたが、幼い彼らにはきつい登りでした。何も見えぬ森林帯をただ登るのです。「もう、限界」と何度叫んだことでしょう。
 小休止をくりかえすうちに、上の方から、カーン、カーンという音が聞こえてきました。小屋の人が薪を割る音でした。その音に励まされ、登り詰めたところ、徳本峠は目の前に一気に穂高連峰を見せたのです。それは二人が初めて見る北アルプスでした。その感動は彼らの言葉を奪い、ただ、涙を流し、「おうー、おうー」と叫ぶだけでした。苦しみながらも信じて付いて来て得た感激でした。小屋の人たちの、「よう頑張ったな」の声はご褒美でした。

 イエス・キリストの神はそれ以上のお方です。私たちをご存知であり、私たちの自己を実現させてくださるお方です。目の前の困難に負けますか、そのとき、最後の勝利はなく、あるのは、愚痴と恨みでしょう。
 この常に真実である神(Uテモテ 2:13)を、あなたがとことん信じ抜いて、人生を歩むとき、最後に思いを超えた喜びの実を必ず見せていただけるのです。ハレルヤー。

2004.09.26(日)


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