『律法の行いではなく、恵みにより』 
新約聖書 使徒の働き 15章7-12節

 今日の箇所はキリスト教会史上、最大の危機の記録です。「イエスを救い主と信じるだけではだめだ。モーセの慣習に従って律法を守らなければ救われない。」とユダヤから下ってきたある人々が異邦人たちに教えました。 一見、何事でもないように見えますが、これこそ、イエスの十字架をまったく否定することでありました。神だけには任せられない。または、日本人の心情で言えば申し訳ない。自分も救いという一連の行為に何か少しでも手伝わせてもらいたいという思い上がり、傲慢さから出た人間の教えです。 パウロは、「私たちの先祖も、私たちも負いきれなかったくびき・律法をあの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのか。」と激しく反論しました。
 事実、人間はどのように努力しても律法を守ることはできなかったのです。そのことを通して、律法はむしろ私たちの罪を暴くものとなりました。
 人間の作った宗教は人間の功績を要求します。それは賢いものに見え、信者も苦労して達成する快感を味わうかもしれませんが、結局は虚しく滅びるものです。肉のほしいままな欲望に対しては何のききめもありません。
 それにも拘らず、今も信者に巨額のお金を出させる、騙してでも信者を集めさせる、そうしなければ救われないと暗に脅迫する宗教がありますし、残念なことに、ますます盛んになってきています。

 イエス様は、「わたしは門です。また、道です。」とおっしゃいました。それは永遠のいのちに入ることのできる唯一の門であり、そこに至る唯一の道であるといっているのです。それは私たちが道路工事をしたのでも、大工で汗を流したのでもありません。ただ、神の恵みとして無償で提供されたものです。私たちは感謝して、そこに入って行き、永遠の生命をいただきます。
 でも、ある人はNOといいます。ただより高いものはないとか、後が恐ろしいといいます。ある人は、それを受け入れることは自分の沽券にかかわる、自分は誰かの力に頼るほど弱くないと言い張ります。それらはみな、その人の人生体験から得た知恵ではありましょうが、自分がどのような存在なのか、真の神がどのようなお方か分かっていないから、そのように言えるのです。
 ちょうど溺れかかっている人がどんなにもがいてみても助からないように、ある限界状況では、恐ろしいほどに自分の無力さを知らされます。そのときは投げ入れられた救命ブイやロープにただ縋るほかないのです。そのような場合でもあなたは意地を張って断りますか? それとも自業自得だといって諦めますか。そんなことは絶対にありません。
 同じように、いや、それ以上にあなたに今、提供されている神の恵みを拒まないでください。自分でもやったのだという自己満足ではなく、真の神があなたにくださる無償の愛、キリストの十字架をただ、感謝していただいてください。そこから生じる平安にぜひ与ってくださるように心から願い、お祈りいたします。

2004.09.12(日)


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