『偏ったことをなさらない神』 
新約聖書 使徒の働き 10章34節〜43節

 信仰の父とも言われたアブラハムを通して、イスラエル民族は主なる神により、地上のすべての民族に神の祝福を伝える器になるための選びの民とされました(創世記12:2〜3)。それは彼らが正しいから選ばれたのではなく、神の恵みでありました(申命記 9:4〜6)。しかし、残念ながらそれがいつの間にか、イスラエル民族の特権意識となっていったのです。
 近代オリンピックの祖 クーベルタンが二国の間に戦いがおこるのは、互いが相手を誤解するからといっていますが、そうではありません。それぞれが自分の国を相手よりも偉いと自分を誤解するからです(ピリピ 2:3〜5)。白人優越主義、ナチ主義、日本神の国主義、それら歴史上の害悪はすべて自国に対する誤解から生じていることは明らかです。

 真の神、キリストの神は偏り見られないお方です。今日のところを読みますと、ローマの将校コルネリオを通して、ペテロはそれを教えられました。万物創造の神がすべてのものを創造されたとき、すべてを「よし。」とされました。そこには争いもなく、涙もありませんでした。しかるに人間の傲慢がそれを壊し、そこから争い、憎しみ、人殺し、偏見と差別が出てきまして、今に続いています。

 先日、中学生と話していたとき、学校では、「いのちの尊さ」をこの秋から教えようとしていると聞きました。どうして、命の尊厳があるのですか、どうして人を殺してはいけないのですか。法律で罰せられるからですか、悲しむものがいるからですか。それくらいの理由では、彼らに命の尊さを知らせることは決して出来ません。たとえば、悲しむ人がいなければかまわないのですか。この前、あるところで中学生が路上生活者をむごくも殺してしまいました。「あいつらは邪魔だ、一人ぼっちだから殺したって、だれにも迷惑がかからない、むしろせいせいする。」という論理でした。
 どこかで偶然に発生した生命が、やがてアメーバになり、猿になり、進化して人となったというのでしたら、私たちがアリを誤って踏んで殺してしまっても、警察に自首することはないように、それとそう遠くはない感覚で殺人もおこなわれ得るのかもしれません。

 いのちの尊厳は、自らの命を捨ててまで、この私をご自分の宝として、愛してくださった神がいらっしゃること、その神はまた、私の隣人をも同じように愛してくださっていらっしゃることを知るとき初めて理解されます。
 私がその神から愛されていると信ずるなら、そのお方が愛するものを私も愛するようになるのです。
 私たちは真の神とともに働くものとして、神のご性質に似せて創造されました。創造の神はご自分が創造された、すべてのものを大切になさっておられます。決して偏りみることはありません。同和教育、障害者のノーマライゼイション、世界平和。これらを解決する道はただ、イエス・キリストにあると信じます。
 お手許の聖書から、ヨハネの福音書 3:16、ヨハネ 第一の手紙 4:7〜11をお開きになって、ぜひ、そのことばに耳を傾けてください。

2004.08.01(日)


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