『神の御恵みを喜ぶ』 
新約聖書 使徒の働き 9章1節〜20節

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらですとパウロは愛する弟子テモテに書き送っていますが、これは彼の信仰の原点でありました。使徒の働き 9章1〜20節の出来事は、パウロにとり忘れえぬこととして、同じく22章、26章にも繰り返し記しています。

 ステパノを石打ちにしてから、サウロ(後のパウロ)は、イエスの弟子たちへの迫害の手をいっそう強め、ダマスコにまで追って行きますが、その途上で、復活のイエスさまにお会いします。突然、天からの強い光が彼を巡り照らし、彼は地に倒れてしまいます。その中で彼は、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」とのお声を聞きます。「主よ。あなたはどなたですか。」と彼が問いますと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」とのお答えに、彼は愕然とします。今まで彼の信仰の熱心さのゆえの行為が、全く反対の取り返しのつかぬ事をしてしまっていたことを知らされたのです。 彼は目の見えぬまま、ダマスコによろよろと入り、アナニヤによって、神の御心を知らされ、バプテスマを経て、新しく生まれ変わりました。

 彼はこの出来事を生涯忘れることはありませんでした。彼は自分が神の前に罪人であることをしっかりと認めました。そして、神が自分のために御子イエスさまを十字架につけるほどに愛してくださったこと、そればかりではなく、そのような神に敵対していた自分を神の働き人として、召してくださったことを知ったとき、その計り知れぬ恵みにうちふるえました。

 ちょっとした風邪で、医者にかかり、直ったとしても、格別には喜ばないでしょうが、もし死を宣告されながら、医者の手当てにより、いやされたとしたら、その喜びはどれほどでありましょうか。イエス・キリストを信じることも同じです。自分はまあまあの人間であると思っている人は、なかなか、救われたことが分かりません。自分ではどうしても解決できなかった神に対する罪があったことを知り、それが自分の努力ではなく、ただ、神の恵みによって、赦されたことを知ったとき、私たちは救いの喜びに浸ることが出来ます。
 闇が暗ければくらいほど、そこに差し込む光が輝くように、自分の罪をしっかりと見続けるとき、キリストにより救われた喜びは大きくなるのです。

2004.07.18(日)


>> 最新のメッセージ
© はるなキリストの教会