『いと小さき者の一人に』
新約聖書 マタイの福音書 25章31〜40節

 24章から、25章にかけては、終わりの日、だれが主のみ前に立つことができるかという、イエス様の私たちへのもどかしいほどの、訴えが語られています。今日のところも単なる善行を勧めているのではありません。 私たちは、ほとんど無視されているような人を前にして、何をするでしょうか。私には関係がないと、通り過ぎるか、または、恩着せがましく何かをしてあげて、そして、私はこのようなことをしたと広場に行って盛んに宣伝しますか? 両方とも残念なことですが、私には前者の方がまだましに思えます。この世の人は得てして打算で、何かをしたり、しなかったりします。
 神は私たちがまだ神の敵であったときに、キリストを十字架の死に渡され、私たちに対するご自身の愛を明らかにされました。参照 ローマ 5:6〜10。これを知ったとき、私たちは打算的にでもなく、義務感からでもなく、内から湧き出てくる力により、何かをしてしまいます。そしてそれを忘れてしまうのです。裁き主がご自分の右に分けられた人へおことばをくださったとき、彼がきょとんとしていたのは印象的です。あなたが主の御名により、バプテスマされたとき、いただいた聖霊に全てをおゆだねして歩むとき、あなたの心は主イエスの心、そして手となり足となって、天の国へ迎え入れられるのです。
2004.02.29(日)


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