195「北条氏直、最後の日々」



北条氏直(1562―1591)

国王丸、新九郎、従五位下・左京大夫、見性斎。北条氏政の男。小田原北条氏最後の当主で、今川氏真の名跡をも継承。本能寺の変後、織田家の部将滝川一益を神流川で破った。その後、旧武田領の甲信地方へ進出するが徳川家康に阻まれ、領国化に失敗した。豊臣秀吉の関東惣無事令に違犯したとされ、天正十八年(一五九〇)、居城小田原を包囲され降服開城。岳父家康との関係で一命を助けられ、高野山へ蟄居した。翌年赦免されたがその年のうちに疱瘡に罹り死去した。室は徳川家康の女督姫(良照院)。

◆天正十八年七月、関八州に雄飛した小田原の北条氏は天下の兵を大動員させた豊臣秀吉の前に屈した。北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられたものの、当主氏直は徳川家康の婿であったことが酌量されたのか、一命を助けられ高野山へ蟄居となった。大名家としての北条氏は消滅するが、実は河内のほうで北条家は存続し、後には一万石にまで加増されて大名(狭山藩)に列している。この系統は秀吉の許可によって取り立てられた氏直の名跡ということであったが、当の氏直は小田原開城の翌天正十九年十一月に死亡してしまった。そのため、氏直の叔父氏規の系統が継いだ。

◆と、いうようなことは結構知られているので、ここからが本題。氏直が高野山に入ってから、最後の年をどのように送ったか、そこにスポットをあててみたい。

◆まず、高野山でさびしいお正月を迎えた氏直。近侍する山角直繁が「梶原備前どのから年頭の祝儀が届きましたよ〜」と大げさな披露。

直繁「わーお、海苔だあ♪」
氏直「目録を披露する前に勝手に開封するな、コラー」

◆閏正月、氏直は徳川家康が上洛したと聞いて、さっそく秀吉近臣の津田信勝に「何とか家康どのから関白殿下へ取り成してもらえるようお願いしてください」と切々に訴えた。翌月には冨田知信にも綿百把を贈って「プレゼントが少なくて笑っちゃうんですけど、これで何とかお願いします」と涙ぐましい書状を書いた。津田も冨田も小田原合戦前から秀吉の使者として氏直と何度も書状を交換した仲だった。

◆こうした運動が実を結んだのか、やがて秀吉から謹慎を解くという知らせが届いた。高野山高室院からもお祝いの使者がやって来た。氏直は「住所は大坂に決まりました」と返事。「三日前に戻りました」と答えているから、秀吉に呼び出されたのかもしれない。

◆大坂への引越しは五月上旬であった。二ヶ月あまりたって、近侍する山角直繁が「梶原備前どのから引越し祝いが届きましたよ〜」と披露。

直繁「あ、いけない。目録、目録と。エー、鯖、五十」
氏直「ご、五十匹? この真夏に、鯖、五十・・・・・・」

◆その月から氏直はたびたび高野山の高室院へ「祈念の事」および「用所の儀」について依頼をしている。梶原が贈った鯖に当たって平癒祈願を頼んだのではなく、来年に予定されている「唐御陣」のことであるらしい。どうやら大規模な合戦にかり出されることになりそうなので、北条家伝来のご本尊などを高室院へ移そうとしていたようだ。

◆大坂へ移ってちょっとばかり知行ももらえたらしい。家臣山上久忠に対して三五〇石を与えている。しかし、内訳は三五〇石のうち百石が河内のうちの二ヶ所。残る二五〇石は「いずれ関東で北条家の知行が認められたら、その中から差し上げることにする」というもの。つまり山上が貰ったのは百石。氏直はいずれ関東に戻されるもの、と思っていたようだ。

◆八月十九日に秀吉にお目通り。仲介したのは施薬院全宗だったらしい。人質にとられていたのか、離れ離れだった「女房衆」も二十七日に帰って来たので、氏直はさっそく全宗に礼状を書いた。

◆しかし、相変わらず台所事情は苦しかった。十両の借金ができた。氏直は山角直繁に「この十両はわが知行のうち丹南郷の今年の年貢から充当して貸主に返すように」と細かい指示。

氏直「よいか。今月(九月)から十一月までの利息が二両一分。これは二枚(借金は十両なので五両相当の大判二枚か)につき利息が月に三分で借りたものだ。つまり、三分×三ヶ月で利息九分、一両=四分だから、二両一分」
直繁「う〜、頭イテ」
氏直「とりあえず、兵糧を集めて、元利合計十二両一分に換金し、十一月末日までに指定口座に振り込むように」
直繁「関東の頃のように、米とか野菜で返しちゃだめなんですか?」

氏直、やたら細かい。懇意の秀吉近臣から直伝されたものか。もともと数学が得意だったのか。部下に任せず何でも自分でやってしまう管理職というのはいるが、奉行衆が作成した書類にハンコつくだけの大名ばかりではなかったのだ。

◆山角直繁はこのあと「貸惣奉行」に任じられる。台所、御蔵出の管理である。「いい加減にやるなよ」という氏直の一言も。そればかりか「安藤清広たちを応援につけるので、月ごとに寄り合いを持つように」と運営面でもフォローが入る。

◆奉行衆が動き出してからも氏直のチェックは続いた。十月十七日には「この前の賄い役だけど、格式だからって、必要なさそうなものもあるぞ。もっとコストダウンを図ってくれ」なんて指示も出している。まさに氏直こそ「真の奉行」。こまかいチェックを入れつつ、しかし、氏直は半月後に急死するのであった。




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