193「信玄・陽雲院夫妻肖像の像主は?」



川窪信俊(1564―1639)

新十郎、与左衛門。信実の子。武田信玄の甥。元亀二年(一五七一)、叔父松尾信是の死により、その娘を娶り、松尾氏を称す。天正三年(一五七五)、父信実が戦死し、その遺領をも併せた。武田家滅亡時、母とともに逃れ、徳川家康に召し出されて旧領を安堵された。家康に従って信濃経略をはじめ、長久手、小田原、関ヶ原、大坂の陣などに従軍。寛永三年(一六二六)に隠居。法名法性院殿三関道二居士。

◆埼玉県児玉郡上里町の陽雲寺が所蔵するという「(伝)武田信玄・陽雲院夫妻肖像画」を見た。信玄は剃髪し道服に身を包んでいる。扇子を手にし、脇には刀が立てかけてある。陽雲院は葡萄模様の服を身にまとい、甲斐国とのゆかりを主張している。しかし、これは本当に武田信玄とその夫人の画像なのだろうか。

◆この絵は狩野元俊秀信が描いたもので、右隅に「年寿八十二歳元俊書之」という落款があることから、寛文九年(一六六九)に製作されたことがわかる。これは、陽雲院五十年忌のためであるというが、彼女は元和四年(一六一八)に亡くなったらしい。信玄の妻だというこの女性は何者なのであろうか。

◆まず、信玄の正室三条夫人は円光院。信玄に先立って五十歳で亡くなり、「円光院殿葬儀諸導師記録」が残っているから、「陽雲院の五十年忌」という記述とは矛盾する。寺伝の三条夫人九十七歳没というのは信じられない。また、三条夫人とは別の、信玄側室である可能性も低いように思われる。当主と側室が並んだ肖像画というのはあまり聞いたことがないからだ。

◆この画像と深く関わりがあるとみられるのは、武田信玄の弟信実(川窪氏を称す)の家系である。

◆寛文四年に武田姓を許された信貞(川窪信実の曾孫)が、狩野元俊に肖像画製作を依頼したものではないだろうか。五十年忌の話が本当ならば、女性は信貞の祖母、つまりは川窪信俊(信実の子)の室を対象としているのではないか。ちなみに信俊は寛永十六年二月に七十六歳で没している。九歳だった信貞は同年に父信雄とも死別している。道服の主はいかにも初老を過ぎている印象がある。三十二歳で長篠において戦死した信実には見えないし、三十九歳で死んだ信雄もそぐわないような気がする。

◆川窪信俊は父信実を長篠合戦で失った時、わずか十二歳だった。信貞と境遇が似ている。その信俊は信玄側室秀姫に養われたというが、これが三条夫人と誤伝されたのであろう。長篠合戦があった天正三年には、すでに三条夫人は亡くなっている。武田家滅亡後、徳川家康に仕えた信俊は、天正十九年頃、児玉・比企両郡で千六百石を与えられた。金窪に陣屋を構えた信俊は、一族の陽雲院を招いて一寺を建立したという。

◆信俊が招いた陽雲院は信玄側室のひとりか、あるいは松尾信是、川窪信実といった人々の未亡人でもあったのだろうか。信俊には母か養母にあたる人である。可能性としては信俊の実母(漆戸河内守の女という)というのが、もっとも自然であるように思われる。

◆画像の主が信俊であるとすれば、横にいる夫人は『寛政重修諸家譜』に記載がある正親町公仲の娘と考えていいのだろうか。信俊の最初の妻は叔父松尾信是の娘であった。二人目がこれも叔父の武田信廉の娘、そして三人目が正親町氏とされている。あとの二人は側室というより後室と考えたほうがよかろう。そして、肖像の女性は片膝をたてているようにもみえる。右手の位置はたてた膝に置かれているのではないか。公卿というよりは武家の娘という感じがする。この点で、かりにこの画像が信玄とその夫人を描いたものであるとすれば、三条夫人の可能性はなくなる。さらに、夫人の服の葡萄模様は甲州生まれ・甲州育ちを強く印象づけている。おそらく最初の妻松尾氏か、二人目の信廉の娘であろう。

◆川窪信俊夫妻を描かせた武田信貞は、その後、治水のための諸沼構築にともなう領民使役が原因で、丹波へ領地替えになってしまう。その甲州流の治水技術にかつての領民が気づき、信貞の遺徳を顕彰したのはずっと後になってからのことである。




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