189「ifの幻想」



佐竹義久(?―1601)

従五位下、中務少輔、中務大輔。佐竹義堅の二男。佐竹氏の本城太田の東方に館を構えたため、代々、東殿と呼ばれた。天正十年の佐竹義宣烏帽子始祝儀の席次は佐竹南家に次ぐ。義重・義宣に仕え、豊臣政権成立後は中央との結びつきを強めた。後に鹿島・真壁で六万石を領す。関ヶ原合戦後、上洛して徳川家康に謁す。

◆歴史にもしも――if――は禁物である、とは誰が最初に言った言葉なのであろうか。皮肉にもこの言葉が用いられる時は、「だが、しかし」と続けられることが多い。「歴史にもしもという言葉は禁句であるが、もし、○○が○○であったなら・・・・・・」というフレーズである。歴史にもしも――if――は禁物である。この言葉を最初に発した人間は、実は架空の歴史をあれこれ創造・構築する魅力にとりつかれており、おそらく自戒の意味をこめて「禁物である」と言ったのではないだろうか。

◆筆者は運命論者ではないから、歴史の悪戯とも思える行為には時に受容しがたい憤りもおぼえるが、だからといって、選択されなかった別の道についてはとりたてて強い関心を抱くことはない。あれが転換点だったかも、と事務的に再確認するのみである。それにしても、「もしもあの人が生きていたら」「もしこうしていれば、あの合戦に勝利していたのでは」という思いは興味本位ということもあろう。が、関ヶ原敗戦によってその後の三百年間の運命を決定づけられた側としては、悔しさも滲み出ようというものである。

◆佐竹氏の場合は、東義久がそうした「if」を担う存在である。佐竹家臣の末裔たちは現在でも口にする、「東義久さえ存命していれば、秋田へ減転封されることもなかった」と(秋田魁新報)。

◆小山評定の結果、西へ反転していった徳川とその与党。佐竹義宣もまた水戸城に帰陣したが、佐竹義久だけは三百騎を率いて徳川秀忠の軍勢に加わったという。この出陣の際、義久は家康に対して義宣の立場を釈明し、佐竹領安堵の誓紙を得たという。これには、義久が義重に家康追撃を主張したが容れられず、「家康を討たないのであれば、わずかな兵を割いて、味方すべきです。そうしたら、後難を避けられるでしょう」と進言したという逸話もある。

◆ところが、戦後になって徳川家康は佐竹義久を呼び出して、義宣の国替えを伝えた。義久は「わたしが存命中は国替えの儀はひらにご容赦のほどを」と願い出たと「長野先生夜話集」は伝えている。この時、家康は義久に宇都宮十五万石を与えるという交換条件を提示している。これを聞いた佐竹家臣和田昭為が義久に詰め寄った。義久は「家康はわれらより年上だ。先に死ぬのは確実。家康が死ねば、徳川家は佐竹を思うとおりにはできまい」と答えた。

◆慶長六年四月、佐竹義宣の父義重が上洛している。義久の上洛はその二ヶ月後の六月二十三日のことであった。そして、義久は十一月二十八日に急死してしまう。一説には四十八歳の若さであったともいう。義宣は翌年四月に京都・大坂へ至った。佐竹の処分が決められたのは義宣の滞京期間中の、五月八日のことである。

◆『当代記』は「とかくの意趣もこれなく、賢意次第」と、佐竹義宣の自重する様子を伝えているが、『義演准后日記』には、佐竹勢が国替えを拒んで蜂起するのではないか、と市中騒然となったとある。蜂起はともかく、佐竹主従にとって青天の霹靂であったことだろう。

◆佐竹義久の宇都宮拝領の密約は本当にあったのだろうか。義久は関ヶ原以前には石田三成に近かった。太閤の蔵入地を管理する役目も負っていた。しかし、関ヶ原合戦では本戦の参加はなかったものの、徳川秀忠の軍勢に三百騎を差し出している。佐竹一族の中で、東軍に味方する姿勢をもっとも明らかにしたのも義久であった。その功に免じて佐竹義宣の罪を許し、宇都宮十五万石を義久に与え、さらに義久から義宣への譲渡を願い出させるという、毛利家に似たシナリオも考えられるが、推測の域を出ない。

◆ついでながら、江戸時代、佐竹氏が参勤交代の際、藩士に対して「旧領(常陸国)を通行中、先祖の墓参り、ルーツ探しと称してあちこち徘徊するな」とお触れを出している。歴史探訪にいそしむ藩士もいたかもしれない。




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