185「近江のおんな」



孝蔵主(?―1626)

蒲生家臣川副勝重の女。豊臣秀吉とその正室高台院の信任を得て、奥向きの奏者となる。秀吉没後、高台院に従って隠棲。徳川家康とも親交があり、のちに江戸へ出て徳川秀忠に仕える。

◆たしかアガサ・クリスティーだったかと思う。ミステリー作家としてもっとも脂がのった時期に、名探偵ポワロが手がけた最後の事件を扱った長編を書き上げ、封印をして「遺作」としたという話である。その作品は後に『カーテン―ポワロ最後の事件―』として発表された。自ら失踪するなど「ミステリーの女王」の面目躍如といったところか。

◆洋の東西を問わず、所詮人間が考えることは同じなのか。聚楽第が落成した時、得意の絶頂にあった豊臣秀吉も何やらコソコソ色紙にしたため、信任厚い孝蔵主を呼んだ。

秀吉「この色紙をな、箱に入れてきちんとしまっておいてくれ。いずれ必要になった時に出してくれ」

◆やがて、秀吉にも凋落の気配がしのびよる。聚楽第落成から十二年後、死の床にあった秀吉は孝蔵主に預けてあった箱を持ってこさせた。中からあの色紙が取り出された。

つゆと落ちつゆと消えにし我が身かななにわのことは夢のまた夢

◆年月日に諱をどうにか書き終え、必死で花押を据えようという秀吉であったが、とうとうなかばで力尽き、筆を取り落としてしまった。この色紙は木下家に伝えられているということである。江戸時代の随筆『塩尻』に紹介されている逸話である。

◆ところで、豊臣から徳川への政権交代の影に高台院の影響力があった、というのが司馬遼太郎の史観である。高台院手ずから握ったおむすびを頬張って、戦場へ向かった加藤清正、福島正則といった連中に「家康に協力するよう」指示したとされる。これをもとに橋田寿賀子などの脚本家がテレビドラマに仕立てた。だが、影で動いたのはこの孝蔵主だったのではないか。

◆もちろん加藤清正、福島正則をはじめとする秀吉子飼い大名たちの高台院に対する敬慕の情も無視はできまい。だが、高台院が直接、彼らに「家康に味方して天下をとらせなさい」などと言ったとは思えないのである。せいぜい「三成にも取り込まれないように軽挙妄動するのは控えなさい」ぐらいの忠言が関の山だったのではないだろうか。そこへ行くと孝蔵主はチョコマカと動ける身分上の気楽さがある。現に、孝蔵主は徳川家康とも入魂の間柄、後に江戸へ出て徳川秀忠に仕えている。秀吉子飼いの大名たちに徳川方の思惑をそれとなく吹き込んでいたとしてもおかしくはない。

◆恐るべし孝蔵主、と言いたいところだが、実は彼女の甥が三成の娘を嫁に貰っていた。しかもこの甥を、後に孝蔵主は養子として後継者にしている。彼女は高台院や秀吉子飼いの武将たちが出入りする間近にいながら、西軍のために情報を集めていたのではないか。高台院のシンパであるならば、高台寺の脇にでも墓があってもよさそうなもの。それが、まるで高台院を見捨てるように、その生前に京都を後にし、江戸へ出てしまっている。

◆高台院、しょせんは尾張の田舎娘。近江の女にご機嫌をとられて、その真意までは見抜けなかったものか。

◆ついでながら、孝蔵主が去った後、大坂城内でその座を占めたのは、大野治長の母・大蔵卿の局である。彼女もまた近江出身の女性だ。あるいは高台院関連情報が孝蔵主から大坂城内へ配信されていたかもしれない。加えて、徳川家にも内情を流していたかもしれない。孝蔵主の墓所がある南泉寺は後に将軍家から葵の御紋を拝領しているのだ。

◆とかく、お市の血筋をひいた浅井三姉妹の絢爛たる生涯と悲劇が取り上げられることが多い。たしかに浅井の血は徳川将軍家、天皇家にも流れている。が、蒲生家も負けていない。孝蔵主からやや後の時代に大奥で権勢をふるったのは、春日局腹心の祖心尼である。彼女もまた蒲生氏郷家臣町野氏の出身だった。近江閨閥にとっては、徳川=豊臣という権力の枠さえも物の数ではないのか。

◆近江の女性には・・・・・・何かある。




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