182「Go!Go!豪姫」



豪姫(1574―1634)

於語、備前御方、南御方、樹正院。前田利家四女。豊臣秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁いだ。秀家との間に二男一女をもうける。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦で西軍が敗退し、主力であった宇喜多家は改易された。戦後、夫秀家と息子二人は八丈島に流された。一女をともなって前田家へ戻り、兄利長、弟利常の庇護を受けた。以後、夫と息子たちに仕送りを続け、その遺志は明治の宇喜多家赦免まで受け継がれた。寛永十一年(一六三四)、野田山墓地に葬られた。

◆キー!信じらんない。秀吉パパがおねママに「豪姫が男だったらよかったのに」なんてメール送ってたなんてー。おまけに関白にさせたいだなんて。おねママが「ほらほら」って見せてくれたんだけど、あたし、関白なんてまっぴら。関白よりも新しい服が欲しいよ。宇喜多家の家臣たちって、出費がかさむとかブーブー文句ばっか言ってんだもん。

◆前田の父上も見かけはコワイけど、あたしがビョーキになった時、あたしの布団の周囲をぐるぐる徘徊してた気味悪いキツネたちを、名刀三池典太(秀吉パパからレンタルなんだけど)をふるって追い払ってくれたし。あ、でもその後でゼーゼー息吐いてたかな(笑)。そのくせ、三池典太はちゃっかり貰っちゃったらしいけどね。もっとも別の人に聞いた話では、前田の父上が、あたしの枕元に三池典太を置いたら病状がよくなり、どけたら悪化したと、筋が通るような通らないようなことを秀吉パパに説明して、合法的かつなしくずし的に前田家の家宝にしてしまったらしいけど、思わず「マジイ〜? 利家せこいぞ」って思ったわ。

◆そして慶長五年、最愛の中納言サマが徳川の狸ジジイを討ち果たすために出陣することになったのよ。留守番させられるのはイヤだけど、中納言サマの甲冑姿って凛々しくてスキ。めっちゃヴィジュアル系。食べちゃいたいくらい。でも、貞淑な妻であるあたしは直垂に齧りつくようなお行儀の悪いことはしないわ。そのかわりに、中納言サマの武運を祈っちゃったりなんかするわけ。大和国の長谷寺の馴染みのお坊さんへメールすればオッケー。出だしは「しばらく連絡できなくてごめんねー」って、かなりあたし的には謙遜してみたんだけど、考えてみればお坊さんに知らせる近況なんてあり得ないでしょ。「やっほー、げんきー?」なんて、ねえ。秀吉パパや前田のお父様が亡くなった時は、けっこう騒々しかったんだけど。

◆でさ、中納言サマが出陣するっていうんで、「災難に遭ったり、弓矢にあたったりすることがないようにお祈りしてね。百日参りと撫物もね」と長谷寺の廊坊サマに依頼したの。でも考えてみたら、中納言サマっていっぱいいるんじゃない。前に秀吉パパがレンショジョーっていうのを見せてくれたんだけど、マジびっくり。せっかくお祈りしても、観音様が間違えてそういうヨソの中納言の誰かへ御加護を下さったりしたら、大変! だから「さる年二十九歳の中納言サマよ」って念押ししたわ。

◆それでも秀家サマのほかに「申年で二十九歳の中納言」がもし存在してたらどうしようと思ったから、「p.s.世の中には中納言がいっぱいいるけど、あたしがお祈りをお願いするのはただひとり、秀家サマのことよ。間違えないようにね」って・・・しとやかな妻は手紙の中で愛する夫の名を書いたりはしないんだけどね、ふだんは。はしたないけど、ストレートに言わないと伝わらないからねッ。

◆前回、メールした時、廊坊サマがなかなかレスよこさなかったのよ。だから、忌々しいけど、あたしのほうから「返事頂戴ね」って、初穂料として銀子一枚添えて送ったってわけ。でも、こんなに尽くしたのに中納言サマが負けちゃったあ。廊坊のお祈り、だめじゃーんと思ったけど、「合戦に勝ちますように」ってお祈りしてもらうの、書き忘れちゃったっけ。

◆一度は薩摩へ落ちのびた中納言サマだけど、それもバレて八丈島へ島流しに! しかも、こっそり仕送りしたのが途中で役人たちに分捕られてしまったって言うじゃない。すぐに弟(利常)ンとこ行って、胸ぐらつかんで「幕府にかけあってきなさいよー! 病弱で傷心の姉の頼みがきけないっていうのー!?」って脅してやったわ。利常も幕府より姉のほうが恐かったみたい。涙目になってた。参勤交代で江戸へ出た際に嘆願してくれて、幕府もあっさり許可してくれた。もう、遠慮はいらないわ、あなた、坊やたち、おいしいお米を贈るわね!。




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