176「ナナコを返せ」



依田康信(?―?)

下総守。北条氏邦の奉行で評定衆のひとり。天正年間に活躍。現存する裁許印判状における書判では、「下総守康信」とのみ記名があり、従来、三河国八名郡石巻郷から出た石巻氏の一族とされてきたが、上野依田氏の可能性が高い。

◆天正十五年(一五八七)春、小田原城内では当主氏直、隠居の氏政を前に評定衆たちが集まっていた。

松田憲秀「では、第二千とんで五十六回目の小田原評定をはじめたいと思います。はじめに今日の上方ニュースから。板部岡どの、よろしく」
板部岡融成「お手許にお配りしました資料をご覧ください・・・・・・」

◆評定衆依田康信は頭を抱えていた。手許にまわってきた資料も同僚の説明も頭に入ってこない。評定は時折、しわぶきの声や欠伸をはさみながら、いつものように粛々と進んでいった。依田康信も議案をひとつ抱えて今回の評定に望んだのだった。だが、彼は、次第に緊張感を増す上方との情勢が議題の大半を占める空気に、場違いの議案を持ち出していいものかと悩んでいた。いや、この緊張感は上方情勢によるものではなかった。本城小田原とそこをホームグラウンドにしている官僚たちの威圧感に、上州から出張して来た依田康信は気圧されていたのである。

松田憲秀「時間がおして参りましたので、次に移りたいと思います。エー、次は下野どの」
依田康信「は、ただいま」

◆思わず腰を浮かした拍子に、書類をバラまいてしまった。松田憲秀が露骨に顔をしかめた。

依田康信「申し訳ございません。エー、今回の訴状を出したのは上州の後閑宮内太輔どのでござる。代官ナンジャイ志摩の申すには、宮内太輔どの所に召し出すはずの女ナナコを、同国新保に住まいおるソリマチ豊前と申す者が横領せし由。以来、二十余年、ナナコを我が物と」
松田憲秀「ソリマチの言い分は聞いたのか」
依田康信「は、ソリマチ豊前を召還し、取調べましたるところ、ドスをきかせた声で、兄弟の好みというもんよ(声色)と申す一点張りにて」
松田憲秀「なんじゃ、その兄弟の好みとは!」
安藤良整「後閑はそのナナコとやらに暇をやるといった証文を書いたわけではないのだな」
依田康信「ございません」
松田憲秀「ならば、話は簡単ではないか。ナナコをソリマチに返すよう、ナンジャイに命じればよい!」
依田康信「いえ。今、ナナコはソリマチの所におるのでござる」
松田憲秀「どっちでもよい。ナナコをかこっている者に、ナナコを返すよう、奉行のおぬしが一筆書けばよいではないか。だいたい、小田原まで出張してくるほどの内容か。立ち戻ったら、安房守どの(氏邦)にたまには小田原評定に出席して、上方との問題に真剣に取り組んでいただきたいとお伝え願いたい」
依田康信「ま、まことに恐れ入ってござりまする」
北条氏政「その、ナナコとやらは美人なのか?」
依田康信「は。生憎とブロマイドは持参しておりませんが、ソリマチが申すには花のかんばせ、蜜を塗ったような唇にて」
松田憲秀「大殿!」
北条氏政「いや、すまん」
松田憲秀「そのほうも答えなくてもよろしい!」
依田康信「も、申し訳ございません」

◆四月二十日、評定衆依田康信は、後閑宮内太輔の代官南蛇井志摩守に対して、新保郷百姓反町豊前が女を二十年も不正に召し使っていた所業を「曲事」として、来月二十七日までに女の身柄を請け取ることと書面にて報じた。権威の象徴・虎朱印も捺した。

◆その後の経過は伝わっていない。おそらくは、反町豊前が依田康信の命により、「デ、アルカ」と納得したかどうかは知らないが、件の女性を南蛇井志摩守に引き渡したと思われる。反町に咎めはなかったようで、彼はその後、北条氏直の偏諱を受けて、直定と名乗り、寛永二年の大晦日に亡くなっている。実際にナナコという名であったかどうかはわからないが、後閑宮内太輔のもとへ召し出された女のその後は記録に残っていない。


付記:当初この話は石巻下総守康信のエピソードとして執筆した。参考とした『新編高崎市史』をはじめとする諸書に「下総守康信」を石巻氏に比定していたからである。しかし、黒田基樹氏が「北条氏家臣石巻氏系譜考」の中で「既刊史料集のほとんどが評定衆下総守康信に石巻氏と校注しているが、管見の限りその根拠は何等存在していないようであり、従って下総守康信を石巻氏として扱うわけにはいかないであろう」という考えや、石巻氏の系図に下総守康信と思われる人物が見出せないことがわかった。したがって、『戦国遺文』の「依田氏か」とする説を採ることにした。後日、下総守康信の素性が知れたら、本稿は書き改めなければならない。



XFILE・MENU