175「オレンジ・ソルジャー」



薄田兼相(?―1615)

隼人正。豊臣秀頼の家臣。三千石を領すが、前半生の事蹟は不明。豊臣家の馬廻り衆に薄田氏があり、この一族であろう。慶長十六年(一六一一)の禁裏御普請の大坂衆として名がある。慶長十九年、大坂冬の陣で博労ヶ淵の砦を守備するが、留守中を襲撃され陥落。翌年の夏の陣で戦死した。水野勝成の家臣河村重長に討たれたとされる。講談の豪傑岩見重太郎の後身とされる話が広く流布している。

◆ひさびさ、不名誉の烙印をおされた人物について弁護を試みる話である(いつも弁護になっていないのだが)。今回は遊女屋に泊り込み、泥酔している最中に砦を敵に陥れられ「橙武者」と嘲られたという薄田兼相である。昨今は酒好き・女好きといえばこの人!のレベルにまで達しているようだ。

◆大坂両度の陣では、物売りが集まっていたりしていたのは確かで、遊女屋があってもおかしくはない。ただし、勤務評定などが残っていないので、今回の「その時」慶長十九年十一月二十九日に薄田兼相がどこにいたかなどは確認できない。

◆橙は花が咲いて若い実がなる頃まで,前の年の実がついていることがあり、黄色い実が青みを帯びるので「代々青い」ということからダイダイという名前になったという説がある。

◆薄田兼相は血気の勇士にて深謀遠慮に足りない。博労ヶ淵の砦の前面には木津川が流れており、寄せ手が攻めかけてくることはないとタカをくくった。兼相は持ち場を離れ、神崎の遊女屋で酒宴を催し、夜が明けるまで寝込んでしまったということになっている(「因府夜話」「蜂須賀家譜」)。橙武者の出所は、「大坂御陣山口休庵咄」あたりらしく、これには大野道犬、薄田兼相の二人を差して諸人が「橙武者」と言ったと書かれている。なりは大きいが正月の飾りぐらいにしかならないという意味も書き添えられている。なぜ大野道犬がその後、橙武者のレッテルがはずれた(忘れられたといったほうが正確であろうか)のかはわからないが、思うに、橙の寓意「見かけ倒し」がより薄田兼相のほうにピッタリだったからかもしれない。

◆もっとも、兼相が奮戦した話がないわけではない。博労ヶ淵の砦が攻撃を受けているとの急報に、城へ出向いていた薄田勢がすぐさま救援にかけつけた。「東の方より大中白に取り付けたる旗を真っ先に立て、金の大半月指したる武者、鹿毛なる馬に金覆輪の鞍置きて打ち乗り、人数四五百ばかり寄せ来る」とその勇姿を伝えている。まあ、結局は砦を奪回できずに引き上げてしまったのだけれども。

◆翌年の夏の陣の軍議の最中に、城内の十二、三歳の小禿がツカツカと兼相の前へ進み出て、大柑子を差し出したという。

小禿「隼人佐どの。この大柑子をご覧ください」
兼相「たいそう見事なものである」
小禿「この大柑子は見栄えはよいのですが、不味くて食べられたものではありません。言葉と行動がかけはなれた隼人佐どののようではありませんか」

これは大野治長の仕向けたことだというが、秀頼も臨席している評議の場である。陣中戯言なしと俗に言うが、事実であったならば、大野もよくよく武人としての心得に欠けている人物と言わねばならない。もっとも、この大柑子が橙のことであれば、夏には緑色になってしまうので、夏の陣の頃には「正月のかざり」になるほど見事な実が手に入ったかどうかは疑問である。

◆多勢の前で辱められた兼相は道明寺の戦いに出陣、三尺七寸の野太刀をふるって奮戦し、討死した。兼相を討った人物は諸書によって違っている。一説によれば、覚悟の戦死を遂げる直前、道明寺にて二の手に控えていた兼相は「先陣の様子を見てまいる」と言って自分の隊を残し、馬を進めたという。ついていく、という家来たちを遮り、「ちょっと先手の後藤殿に言上したいことがあるのだ。鑓持ち以外は供は無用である」と言い残した。しばらくして、兼相の馬の轡をとっていた中間が馬をひいて引き返して「旦那も鑓持ちも討死された」と告げた。兼相の家臣牧尾又兵衛がそのように物語ったということである。薄田兼相、最期はよけいなことは喋らずに死んでいったようだ。

◆ついでながら、兼相の弟は兼房といい、大坂落城後、備中国浅口郡連島村に潜行したという。詩人薄田泣菫はその末裔であるという。

常花かざす芸の宮、斎殿深に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折
美酒の甕のまよはしに、
さこそは酔はめ。
・・・やはり遊女屋で飲んだくれていたのだろうか?


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