169「シリーズ武蔵の孤独・日下無双の男」



宮本無二之助(1570―1622)

無二之丞、太郎左衛門。一真は道号か。新免、平尾を称す。はじめ宇喜多秀家の家臣新免伊賀守に仕える。当理流剣術あるいは、十文字槍術をよくし、諸家に門弟多数。天正年間、隣国播磨の田原家貞の次男、武蔵玄信を養子とする。文禄元年(一五九二)、朝鮮の役に従軍。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原合戦に従軍。敗戦後、細川家の家老松井康之を頼って九州へ移住。細川藩で当理流をひろめ、後、筑前国秋月で死去したと伝えられているが、播磨国で没したともいう。

◆剣豪宮本武蔵はほぼ一様に孤独な人物として描かれる。肉親の情、一族の絆、そういったものとは無縁の存在として、己の一腰のみを恃み、孤高の名声を獲得していく過程こそが、現代人が抱く武蔵のイメージであろう。

◆そこで、別のアプローチの仕方で武蔵の孤独に迫ってみたい。当然、剣豪武蔵にも親兄弟、多くの一族があった。その人々を描くことで、武蔵の孤絶した悲哀を探りとれれば、と思う。

◆播磨国の住人田原家貞の次男坊であった武蔵は、成人前に養子に出された。養父となったのは、隣国美作の宮本村に住む宮本無二之助である。ことわっておくが、平田無二斎ではない。宮本無二之助である。平田家はたしかに同国の住人で実在する一族であるが、武蔵の父に比定できる人物は見当たらないのである。巷間知られる平田無二斎に相当するかと思われる平田武仁の墓碑銘には、武蔵生誕以前の天正八年という没年が刻まれている(これについては諸説があるがここではふれない)。

◆無二之助は足利将軍家(おそらく義昭か)の御前で室町兵法所をかまえる京八流・吉岡憲法と三度対戦した。結果は無二之助が二本を取り、この時、将軍から「日下無双兵法術者」の称号を賜ったという。一本は礼儀として勝ちを譲った可能性もあるから、実力は吉岡を凌いだであろう。

◆天正年間には、いよいよ織田信長の勢力が中国地方を侵食しはじめた。羽柴秀吉による中国経略である。無二之助の主君新免伊賀守は信長・秀吉と通じ、明石城を攻略した。この時、秀吉に戦勝報告をしたのが無二之助であった。この時の戦闘で、無二之助は七人の敵と渡り合い、得意の十文字槍をもって勝ちをおさめたと伝えられている。この戦功によって、新免伊賀守は、無二之助に新免姓を許した。

◆新免姓は徳大寺大納言の流れを汲む名流である。古くは神免などとも称したらしく、伊賀守さえも正真正銘の新免氏ではなく、もとは宇野氏で名跡を継いだとする説もある。したがって、無二之助も普段は宮本を名乗った。わずかに「伝書目録」などには宮本無二之助「藤原」一真などと記した(もともとは菅原氏だという)。後年の武蔵も『五輪書』の冒頭に「新免武蔵守藤原玄信」と記している。もっとも、武蔵のほうは遠慮がなかったのか、誇称にとどめた養父無二之助とは違って、堂々と新免姓を用いている。

◆以後、関ヶ原の合戦では旧主新免伊賀守が宇喜多秀家に属していたため、これに従い、西軍として戦った。養子の武蔵もおそらくいっしょであったろう。そして、新免主従ともども敗残の身で九州へ潜行する。無二之助には黒田家にも細川家にも弟子がいっぱいいたのである。なかなか名士だったらしく、豊後国日出藩主木下延俊の日記にも「無二」として登場したりする。巌流島の翌年のことであるから、息子自慢でもしに行ったのか。

◆その終焉の地は、筑前秋月であったという。旧主新免伊賀守が黒田家に身を寄せて、この地にいたからと考えられる。秋月に養父を訪れた武蔵は、正式に家督を譲られたらしい。武蔵の養子宮本伊織貞次が奉納した「泊神社棟札」には次の一節がある。

「作州の顕氏神免なる者あり。天正の間嗣無くして、筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承けたるを武蔵掾玄信と曰ふ」

◆諸国放浪、関ヶ原出陣、吉岡憲法との試合、明石城滞在、細川家の招き。武蔵の足跡の前には常に無二之助がいる。巌流島の決闘も、無二之助が細川藩で剣術を教えていたから実現できたもので、あるいは「おまえ代わりに立会いなさい」と武蔵に言ったのかもしれない。ひょっとしたら、我々が武蔵のことだと思っている事蹟のいくつかは宮本無二之助一真のことが誤り伝えられているのかもしれない。あるいは、武蔵の生涯のキャリア、そのほとんどを養父無二之助がお膳立てしてくれたものであったとしたら? 親の七光りではないが、「○○の子と言われたくない。自分は自分」と主張する人は現在でもいる。自己主張や自己表現に拘る人物であればよけいにその傾向は顕著であろう。

◆常に前を歩く「日下無双」と呼ばれた兵法者の背中を、宮本武蔵は見つめ続けたのである。




XFILE・MENU