162「錦旗・アップグレード!」



長尾為景(?―1542?)

六郎、弾正左衛門尉、信濃守、紋竹庵入道張恕。越後国守護代。長尾能景の嫡男。父が越中で一向一揆と戦って討死すると、家督を嗣いだ。上杉定実を擁立して守護上杉房能を討つ。永正七年(一五一〇)、関東管領上杉顕定を長森原に破って、国政を掌握。畠山氏と連係して越中を攻め、新川郡守護代となる。後、定実との不和により国人衆の叛乱を招き、「禁裏の御旗」「治罰の綸旨」という朝廷権威を背景に勢力の安定化を図った。天文五年(一五三六)八月、嫡男晴景に家督を譲って隠退。没年は同年十二月とされてきたが、近年では天文十一年が有力視されている。法名大竜寺殿喜光道七。

◆ソフトウェアを購入し、正規ユーザーとして登録すると、ある日、バージョンアップとかアップグレードのお知らせという封書が舞い込んでくる。筆者は時にそれに従ってバージョンアップ料を払ってソフトウェアを刷新し、時に無視して封も切らずにごみ箱へ投げ込んだ。経験からすると、悪かったことはないが、よかったということもなかった。しかし、キリがないバージョンアップ地獄と雑誌でも非難がおこっていた。

◆それよりも、かつてはフニャフニャの5インチフロッピー(それを読むドライブもガッコンガッコンと音を出し、やたらと不安を煽った)にプログラム一式が収められ、危なっかしいと思ったことは再三ではなかった。正規ユーザーには1部だけ複製を作ることを認めているのはまだいいほうで、オリジナルのコピーを作成することが禁じられているものもあった。

◆筆者の場合、オリジナルソフトを納めたフロッピーが壊れたことはなかったが、長尾為景はどうやら紛失してしまった模様である。そこで、大胆にも朝廷へ再発行を願い出た。

◆上杉関係の文書などを見ていると、やや女々しいところがある謙信に比べて、その父為景ははるかにふてぶてしかったのではないか、という印象を受ける。何しろ越後守護(上杉房能)と関東管領(上杉顕定)を屠ってもいるし、贈答品である「和尚の絵」が気に入らぬと言って、贈り主の北条氏綱に突っ返したり、国政掌握の推移を見ても強権の持ち主であったことは確かであろう。その為景の政治路線が越後国人衆の反発を買い、次代晴景にいたって協調路線を歩もうとするが、逆に「舐められてしまった」観がある。

◆為景の言い分はこうである。長尾家にはその昔、拝領した「禁裏の御旗」があったが、戦乱にうち過ぎるうちに、どこへしまったかわからなくなってしまった。あるいは焼けてしまったのだろうか。武士の名誉でもあるので、もう一度「禁裏の御旗」を下賜してほしい、と。「禁裏の御旗」再発行はかなり面倒くさい。為景の懇望は、花蔵院→柳原資定→日野内光→広橋兼秀→女房という順序で帝に披露された。

◆再下賜の焦点は、過去に「禁裏の御旗」を長尾家に下賜したことは事実か、ということだった。だが、現物はもちろん存在せず、それを証す文書類もなかったようである。つまり、オリジナルのフロッピーやCD−ROMもなく、保証書もなく、ユーザー登録した形跡もなかったが、発売元に「前に使ってたソフトが壊れてしまいました。使い続けたいからください」と言っているようなものだ。だが、朝廷は前例主義であるから、ゼロの状態から「ください」と頼むよりも、「前にくれたものをもう一度」とお願いするほうが何かと都合がいいのだろう。

◆天文四年(一五三五)六月、ようやく「禁裏の御旗」新調が勅許された。六月十三日、右大弁広橋兼秀は、柳原資定に対し、後奈良天皇の綸旨を発した。いわく、「当家(長尾家)には昔から伝わっていた拝領の御旗があった。由緒もいろいろ問い質した結果、確かなものであることがわかった。が、近年、紛失してしまい、新調したいとの申し出が帝のお耳に達した。箱の底にきちんとしまって、家宝として永久保存するよう、長尾為景に下知するように、との仰せであります」といった具合か。ともあれ、保証書もなかったが、朝廷は為景を正式ユーザーと認めてくれたようである。

◆これを請けて、柳原資定は翌十四日に為景に対し、「禁裏御旗のことはうまくいきました」、さらに十六日の書状で「御礼の青銅五千疋にもたいそうお喜びです。今後はいよいよ忠の志をもって朝廷に尽くしてください」と伝えている。

◆この時に下賜された御旗は、現在、上杉神社蔵の長尾家の軍旗「紺地日の丸」がそれだとされている。平素は春日山城の毘沙門堂に納められていたが、戦場においては御旗堂を建てて、これに安置したといわれている。

◆為景は旗だけでは満足できなくなった。翌天文五年には「治罰の綸旨」を請うている。これは「朝廷に逆らう者たちをこらしめてもいいでしょうか?いいでーす」というものだ。為景は、長尾家への不満を燻らせている越後国人衆に対して、これをふりかざすつもりだったのだ。この時も綸旨の御礼として帝の女房に五千疋、斡旋した広橋兼秀、柳原資定ら公卿たちにも応分の謝礼を贈っており、どうも朝廷や京都周辺での人気も上々だったようである。朝廷側が何を根拠に、長尾為景を「禁裏の御旗」正式ユーザーであると認めたのかは不明である。




XFILE・MENU