161「北越義侠伝―高志溝口義侠誉より―」



溝口秀勝(1548―1610)

竹、金右衛門、定勝、従五位下伯耆守。尾張国中島郡溝口の出。はじめ丹羽長秀の家臣であったが、天正九年(一五八一)、織田信長直臣となり、若狭国政の目付役を任ぜらる。本能寺の変後は再び旧主長秀に従った。若狭高浜城主を経て、賤ヶ岳合戦の戦功によって豊臣秀吉から加賀大聖寺四万四千石を与えられる。慶長三年(一五九八)、堀秀治の与力として越後新発田六万石に封ぜられる。慶長五年、関ヶ原合戦では東軍に与し、上杉遺民一揆を鎮圧した。

◆慶長三年(一五九八)、豊臣政権下で大規模な玉撞き式転封があった。蒲生氏が会津から下野へ。上杉氏が越後から会津へ。そして堀氏が越前から越後へ。堀家の与力大名である溝口秀勝も越路をひたすら北に向かっていた。彼の任地は阿賀野川の向こう、新発田である。

◆寺泊までやって来た時のこと。麻西、篠田を根城としていた野武士二、三百人が一行を襲って来た。上杉家が去った後、治安を維持できる勢力がいなくなったため、各地で暴動がおきているのだった。引越しの途中でしかも馴れない地理、不意をつかれた秀勝たちはたちまち苦境に立たされた。

◆その時、賊徒の背後から別の集団が割り込んで来た。溝口、謎の集団と前後から挟み撃ちにされた麻西・篠田党はほうほうの態で逃走した。助勢した集団はいったい何者の手勢か、と溝口秀勝は首領とおぼしき者に相対した。

「てまえどもは寺泊の商人で菊屋。わたしは主の五十嵐新五郎と申します」

おそらく、商人自ら治安維持にあたっていたところ、溝口家の遭難にいきあったのであろう。喜んだ秀勝は菊屋新五郎の道案内で無事に新発田へ赴くことができた。

◆間もなく豊臣秀吉が没し、関ヶ原の合戦がおこり、越後国内は上杉氏の策動による一揆が猖獗をきわめた。堀氏は与力の村上・溝口の助勢でこれを鎮圧した。が、事件後、堀家では菊屋が旧主上杉氏と通牒していたのではないか、と疑い、春日山へ召し寄せた五十嵐新五郎を捕らえて牢にとじこめてしまった。

◆弁明も容れられず、家財も没収された五十嵐新五郎は牢内で死を待つばかりとなった。「かくなる上は」と新五郎は、剃髪して坊主に化けて面会に来た手代の新吉に言った。

新五郎「溝口秀勝さまをお頼みするしかない。ここに助命嘆願書をしたためた。新吉、済まぬが新発田へこれをお届けしてくれ」

◆手代新吉の報告を聞いた溝口秀勝は驚いた。すぐさま春日山へ赴き、堀秀治に新五郎の出牢を要請した。

秀治「伯耆。商人ごときをなぜそのように庇う」
秀勝「菊屋は新発田へ入部する際、土寇を撃退するのに助力してくれた者だ」
秀治「だが、やつは上杉に通じた重罪人じゃ。牢から出すことはまかりならぬ」
秀勝「菊屋の弁明には、事実であればどのような処分も厭わない、とある。堂々たるものではないか。まずはわしに身柄を預けてもらいたい。菊屋の覚悟、よもや逃げはすまい。その上で取調べの結果、罪が明白となればその時に菊屋を引き渡そう」
秀治「そのようなことができると思うか。やつは死罪だ」
秀勝「むむむ・・・・・・」

堀秀治は与力大名である溝口秀勝を見下していた。

◆さんざん押し問答したが、埒があかない。「ええい。この上は是非もない」そう言い捨てて、秀勝は辞去した・・・・・・と思いきや、

秀勝「菊屋新五郎を放免せよ。従わなければ力づくでも奪いとるぞ」

と、手勢をもって牢を囲み、威嚇した。強硬姿勢に屈した堀氏がついにあきらめ、菊屋新五郎は秀勝に伴われて新発田へ向かった、と菊屋五十嵐家の「家系由緒書」は記している。

◆しかし、「慶長年中御由緒口上之覚」には、堀秀治が菊屋新五郎の身柄引き渡しの条件として、秀勝に対し次々に無理難題をおしつけたと記されている。秀勝はこれをことごとく引き受けて、新五郎を新発田へ伴い保護したという。どちらが本当であったかはわからない。菊屋の潔い弁明状も現在に伝わっている。

◆ともあれ、溝口秀勝はかつての恩を忘れずに、それに報いたことは確かな事実であった。まるで『水滸伝』の一シーンでも見ているような思いにとらわれる。さすがは後年、堀部安兵衛を輩出するだけのことはある。

◆堀家による菊屋への追及はやんだ。堀家の内部にゴタゴタがおこりそれどころではなかったらしい。その後、堀家の改易によって菊屋新五郎は六年ぶりに寺泊へ戻ることができた。慶長年間、越後へ入封した諸家の多くが改易、転封に遭う中、新発田を領した溝口家は幕末まで存続した。新発田では、箒をホウキとは呼ばずにナデと呼ぶとか。秀勝の官・伯耆守に遠慮してのことらしい。




XFILE・MENU