160「午後の朝顔」



お万の方(1580―1653)

蔭山殿、養珠院。里見家の家臣正木頼忠の女。母は北条氏隆の女で後に伊豆国河津城主蔭山氏広に再嫁。徳川家康が関東に入部した後、その側室となり、十男頼宣(紀州徳川家)、十一男頼房(水戸徳川家)を生む。承応二年(一六五三)に没し、池上本門寺に葬られた。葬地については、甲裴国大野村本遠寺ともいわれる。

◆徳川家康の側室にはお万の方が二人いる。結城秀康の生母で三河国池鯉鮒の住人永井吉英の女。嫉妬に狂った築山殿に折檻されたという話で有名である。もう一人が上総勝浦城主の正木左近大夫頼忠の女で、これが今回の主人公である。片方が次男の母ならば、もう一方は十男、十一男である。おそらく両者の間は二十歳以上年が離れていたのではないだろうか。

◆お万は人質として小田原北条氏のもとへ送られてきた里見家の家臣正木頼忠と、北条治部大輔氏隆の女との間に誕生した。やがて、実父とは生き別れになったらしく、母の再婚相手である蔭山氏広に養育された。蔭山氏は足利持氏の七男を祖とする家柄といわれる。

◆お万といえば、「布ざらし」伝説であろう。天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉による小田原攻めが開始された際、勝浦城も攻囲された。やがて城は炎上し、城内にいたお万(当時十四歳)は母と弟を連れて、海に面した断崖絶壁(高さ四十メートルという)から白い布をたらして海に下り、小船に乗って逃げたというのだ。説明板を見てから現地を訪れる者は一様に「マジかよ!?」と叫ぶという。

◆しかし、お万は当時十歳のはず。そして、母親は河津城主蔭山氏広に再婚して、子供たちもいっしょだったはずだ。弟はおらず、兄二人。直連(直というのは北条氏直の偏諱か)と為春(のち紀州藩家老)である。お万がおんぶしなければならないような年齢ではない。勝浦城で戦闘があったこともはっきりしていない。だが、そんな考証など撥ね飛ばすかのように、尼姿のお万像は厳然と海を見据えて立っているのである。

◆ともあれ、北条氏が滅亡し、徳川家康が関八州に入部して数年後のことであろう。お万は徳川家康の側室に迎えられた。おそらく、養父蔭山氏の出自をたどると、鎌倉公方足利持氏にいきつくというところに、家康の関心が向けられたのではないだろうか。持氏は京都室町将軍に対抗意識を燃やし、ついには謀反の嫌疑で討伐されてしまった人物である。関東独立の志向を重視する古い家々の者たちには格別な存在でもあったはずである。

◆そのお万が、家康に寵愛され、頼宣をもうけた。少年時代の頼宣は「武勇絶倫、行事もまた猛暴なること多し」といわれた後年とは違って無邪気であったらしい。昼近くになっても朝顔がまだ咲いているのを見つけて、母・お万に手紙に添えて贈った。

頼宣「朝間の花、午を過ぎて猶ほ栄ゆ。一粲に供する所以なり」
お万「朝花の贈りもの、奇観喜ぶべし。抑も人寿も猶ほ此の花のごとし。苟しくも其の養を得ば、短き者も亦た之をして長からしむべきなり。之を勉めよ之を勉めよ。即ち家国を養ふも、亦た唯だ此の心にて之を視ば、国祚何ぞ長久ならざるを患へんや」

◆要するに、お万の方は昼過ぎまで咲いている朝顔を、人間の一生に譬えて、養生が的を得れば、短い寿命も長くすることができる。国を保つことも同じことだと諭しているのである。どうもこのあたり、現代人は誤解して、比喩を自分のものに転化する能力に欠けているような気がしてならない。それに反して得意なのは自らの内部に(物理的に)取り込む能力である。つまり、「昼過ぎまで咲いている朝顔を集めて煎じて飲めば長生きする」とかいって新たな商品開発が行われる具合か。いや、それ以前に朝顔を摘んできた子供に対して、このような説教をする母親はどこにもいないだろう。目に見えないものを学ぶことは、現代社会においていかに困難であることか。

◆母の教えを守ったためかどうかはわからないが、徳川宗家の血筋が絶えた後、紀州徳川家から吉宗が将軍として入った。以後、お万の血筋の子供たちが歴代将軍家に就くのである。

◆昼過ぎまで咲いていたのは、実は昼顔だったのではないかという無粋な勘繰りはやめておこう。




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