159「伊達の御曹司」



伊達小次郎(1574?―1590)

竺丸。実名は不詳。伊達輝宗の次男。政宗の弟。母は最上氏。天正年間、会津蘆名氏への入嗣問題があがったが、佐竹から義広が入ったため実現しなかったといわれる。伊達家中からは「御曹司様」と呼ばれた。天正十八年(一五九〇)四月七日、兄政宗の毒殺未遂事件に連座して斬られたとされる。没年齢には八歳、十三歳、十七歳、十九歳など諸説がある。政宗が国替えとなった際、陸奥国本吉郡横山の地に改葬された。

◆天正十八年(一五九〇)四月五日、伊達政宗は実母保春院の住む西館で饗応を受けている際、毒味役が「忽ち目眩き血を吐て気息絶入す」という事件がおきた。政宗は自分を毒殺せんとする陰謀があると知り、「虫気」という理由で館へ戻った。その日のうちに回復したと伊達成実が日記に記している。「虫気」というのは理由づけであったろう。しかし、ここから政宗自身が毒にやられたという話が創り出されたのではあるまいか。

◆翌々日の四月七日、小次郎の傅役小原縫殿助が呼ばれた。小原は「小次郎さまを家督に据えるため、御母公が企まれたこと」と白状したため、その場で討ち果たされた。同じ日の夜、保春院は兄最上義光のいる山形へ出奔した。

◆政宗は「母を討つことはできない」として、弟小次郎を呼び出し、手討ちにした、と『伊達治家記録』は伝えている。悲劇の人、伊達小次郎のことはこの程度にしか伝わっていない。もっとも、後に政宗と母保春院とは何のわだかまりもないように音信を交わしている。実は保春院の出奔は文禄三年(一五九四)十一月のことであるらしい。そうだとすれば、前年に政宗が保春院に朝鮮から書き送った母を思う書状の内容も不自然なものではない。政宗毒殺計画も一度、白紙の状態から諸史料を検討してみる必要がありそうである。何しろ、江戸時代中頃になって小次郎に関する調査が伊達家で行われたらしいが、「十七歳というのはおかしい。合戦に出た記録さえもない。亡くなったのは天正十年のことで、八歳の幼児に過ぎなかった」という主張まで飛び出している。当時、すでに小次郎のことはわからなかったらしい。

◆ついでながら、伊達家は初代朝宗から四代政依にいたるまで、いずれも次男が家督を継承している。これにちなんで、惣領の通称は「次郎」ということになった。戦国期には稙宗、晴宗がいずれも次郎といった。輝宗が総次郎、政宗が藤次郎であったが、通常は省略してやはり「次郎」と称していたらしい。ちなみに、江戸時代以降、伊達家では代々当主は「総次郎」「藤次郎」を交互に襲名して幕末に及んでいる。

◆さて、竺丸は元服して伊達小次郎となった。またしても「次郎」である。父輝宗はこの時、すでに亡い。政宗に思うところがあったのか、あるいは保春院の意向であったのかはわからない。ともかく、伊達家に惣領が名乗るべき「次郎」が併立したのである。考えようによっては、これは奇妙でもあり、危険でもある。

◆奇妙と言えば、伊達小次郎には実名が伝わっていない。江戸時代の家臣たちの聞書などにも「法名、葬地は覚えていない」という始末。しかし、天正十六年十一月二十六日に元服しているとすれば、実名は当然持っていたはずだ。政道とする説もある(これが広まったのは、大河ドラマの影響もあっただろう)がこれも後世の創作らしい。一字は想像がつく。兄の偏諱、というよりも伊達家の通字である「宗」ではないだろうか。蘆名入嗣は失敗したが、国分氏の名跡を継がせる動きもあったらしい。だとすれば、国分氏の通字であった「盛」がもう一字の候補ともなろうか。蘆名家へ入ったとしても同家の通字も「盛」である。

◆しかし、いずれにしても小次郎は蘆名家へ入ってはいない。その地位は伊達家の一部将にもならず、宙ぶらりんの状態にあったようだ。天正十五年二月、蘆名氏の嗣子が佐竹義宣の弟に決定したと知った政宗は「事実だとすれば残念だ」と家臣への書状に書いている。小次郎の会津入嗣推進を匂わせる文言である。その年の七月十四日、政宗は小次郎を誘って資福寺へ詣でている。就職先が決まらず、家で悶々としている弟を外に連れ出した図、といったところか。資福寺は政宗が幼少の頃、虎哉宗乙の薫陶を受けたところである。あるいは、この寺で往時のことを弟に語り聞かせたのかもしれない。

◆悲劇が見舞う、三年余り前のことである。



*補足調査
明和二年(一七六五)に建立された金上盛備墓の碑文には、「老臣四輩議曰以政宗之弟正道為嗣然則解舊怨令請和睦」とありますので、江戸時代には伊達正道(あるいは政道)という名が一部で使用されていたようです。(三楽堂)

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