158「杉原親憲伝説(後)」



杉原親清(?―?)

清介、庄蔵、彦左衛門。蘆名氏の遺臣新国藤兵衛(栗村範通)の子といわれる。主家没落後、旧知の杉原親憲を頼り、上杉景勝に仕える。慶長五年(一六〇〇)、最上御陣に従軍。後に上杉家を出奔し、若狭小浜藩酒井家に仕える。『東國太平記』は親清が筆記したものを後世、編纂したものといわれる。

◆杉原常陸介親憲には武者修業伝説がある。十四、五歳の頃、諸国を遊歴し、会津蘆名盛氏の家臣で長沼城主新国上総介貞通に一時奉公していた。後に蘆名氏が没落した際、新国氏はかつて世話をした親憲のもとへ転がりこむことになるのだが。

◆天正十二年(一五八四)、親清の父、栗村藤兵衛は同じ蘆名家臣で男色の関係にあった松本太郎と組んで、主家に叛逆を企てたことがあった。蘆名盛隆が城を出て東光寺に物見遊山に出かけた隙を狙ったものだった。もとは寵童だった松本太郎が主人蘆名盛隆を男色のもつれから怨んだことにあったが、これは失敗し、栗村・松本ともに討伐されてしまった。この栗村の実父が新国貞通であり、幼少だった親清は祖父にひきとられたらしい。

◆親清のその後の動向はよくわかっていないが、後に親清とも接した酒井家家臣宮川尚古によれば、慶長五年(一六〇〇)、長谷堂城合戦に従軍したらしい。杉原親憲が新国庄蔵(親清)に宛てた感状には「羽州最上表の比類なき働き感じ入り候」として、少ないけどご褒美に知行二五○石を加増すると書かれている。新国庄蔵と書かれているので、慶長五年当時は杉原姓ではなかったらしい。この感状は親清の息子藤兵衛が粗略に扱っていたのを、宮川尚古が異見して、きちんと裏打ちして箱に納めて保管させたということを、尚古自身が書き残している。

◆上杉謙信が在世中の頃、杉原親憲が「使いに行った佐竹家で猿楽興行があったが、舞えないので赤恥をかいた。今後は武芸ばかりでなく歌舞音曲もきわめるぞ」と放言した。後に上杉家へ身を寄せることになった親清も小鼓などを習ったらしい。宮川尚古の父なども親清の影響を受けたらしいが、後に八歳になる尚古にこう告げた。

「歌、連歌、又は礼法、茶術、乱舞までも拙からぬ計り習ひ得て、最早本末のわきまえを知るべし。その本といふは学問と武芸にて、此外の品々は皆末なり。卑しき譬なれど、食類に好物ある人、其好物計り打喰ひて、米の食を捨つるがごとし。是れ杉原常州が告戒なり」

勉強やスポーツをするでもなく、ブラブラしている若者に説教する言葉としては現代にも通用しそうである。

◆杉原親憲は「歌舞音曲」を重視したのではない。好きなこと以外もひととおりのことは習得しておこうという意味だった。尚古の父はそのことをよく理解していたのであろう。この話が本当であるとすれば、杉原親憲の言葉が、親清を経由して宮川尚古の父、そして尚古へと伝播したことになる。尚古はこれより文武のスパルタ教育を受けるのだが、軍学者として大成できたのは父のおかげ、と感謝している。間接的に杉原親憲への敬愛の意味もあったことだろう。彼の著作が親憲贔屓になるのもむべなるかな。

◆しかしながら、この言葉を伝えた親清のほうは、必ずしも篤実な人物ではなかったようだ。上杉家の史料では、親憲の没後、養子の弥七憲胤をそそのかして上杉家を出奔してしまったとある。徳川家に仕えるつもりだったらしい。しかし、これは果たせず、結局、憲胤は越前松平家へ、親清は若狭小浜の酒井家へ仕官することになった。この時、ちゃっかり杉原親清と称したらしい。この結果、米沢における杉原家は一時、絶えてしまった。

◆もっとも杉原家の恩を蒙ったという思いは少しは残っていたらしい。親清が主君酒井忠勝の意向によって筆記したものが、後に『東国太平記』として世に出ることになり、杉原親憲を直江兼続に対峙させる格好で具眼の士として登場させている。これに影響を受けて親清の朋輩である宮川尚古が『関原軍記大成』を上梓した。杉原は江戸時代においてメジャーとなり、かくして『名将言行録』には上杉主従九名のうちの一に列するまでになるのである。杉原親憲の武功を世に喧伝したのは杉原親清の尽力によるところ大であると言っていい。



*補足調査
『郷土資料叢書 第十六輯 新庄藩系図書(二)』大友義助/編 山形県新庄図書館 1984年によると、寛永八年十月朔日没の享年四十九ということなので、生没年は1583〜1631となりますね。ちなみにこの系図書には親憲の弟で故あって二男を称すとあります。(X-file特別調査官:ぴえーる)
XFILE・MENU