157「杉原親憲伝説(前)」



杉原親憲(1546―1616)

弥七、常陸介。大関阿波守親信の子。上杉謙信、景勝に仕える。永禄四年(一五六一)、川中島の合戦に従軍。その後、水原城代となり水原氏(のち杉原)の名跡を継承する。慶長四年(一五九九)、会津国替により猪苗代城代となり、五千五百石を知行。慶長五年、最上攻めに軍監として従軍。慶長十九年、大坂冬の陣における鴫野合戦で戦功をあげ、翌年、徳川秀忠より感状を賜った。さまざまな逸話が伝えられている。

◆天性という言葉があるが、武勇すぐれた者は、何か人智を超えたもののパワーの継承者であると考えられていた。杉原親憲は戦国の世に生をうけたが、江戸初期まで存命していたために、上杉家の武功の代表とみなされて後世に喧伝された。

◆この親憲の父大関阿波守親信が若い頃のことである。所用があって夕暮れ、柏崎から在所の上田へ戻る途中のこと。さびしい野原に廟所が建っていて、火葬の跡があった。その廟所で鬼のようなものが何かを食らっているのを親信は目撃した。

◆親信が近づいてみると、まだうら若い娘。鬼の角と思われたのは鉢巻の両端。事情を聞いたところ、さる家に召し使われている下女で、愛人のもとへ通うために火葬の灰でもって鉄漿をつけているのだという。親信、何を思ったのか、「縁結びの神様の引き合わせだ」と女を説き伏せ、家へ連れ帰って妻としてしまった。この二人の間に誕生したのが杉原親憲であるという。その容貌は「身の丈鴨居へ顔があたるほど。異相にして面大にして黒子黒豆を散らす如し」と伝えている。父親信が火葬場から拾って帰った女は、やはり鬼女であったのかもしれない。

◆親憲の事蹟で、今に伝えられているほとんどは慶長五年(一六〇〇)の長谷堂合戦、および慶長十九年の大坂冬の陣における武勇伝である。いわく、猿楽の半纏を着用したところ、家康が目にして「上杉家は古風だ。杉原は直垂を用いておるぞ」と言った話。スズメの子を呼ぶかのような鉄砲隊の水際立った指揮ぶり。徳川家から感状をもらってその場で内容をあらためた上で「謙信弓箭の遺風を天下にあげた」と放言した話。その感状を持ち帰って「子供の石合戦のようなもので感状をもらった」と笑った話など枚挙にいとまがない。司馬遼太郎も格別、この人物には愛着があったらしく、『街道をゆく・羽州街道』の中で林泉寺の墓を訪れ、「杉原はここにいたのか」と感慨にふけるシーンを描いている。その墓石は瘧に効くというので江戸時代に人々の手によって少しづつ削られたらしい。何でも親憲は出陣するとブルブル震えるのが癖だったが、いったん戦闘がはじまるとピタリと震えがおさまったといわれている。この震え(武者震いか?)が瘧に転じたのであろう。あるいは晩年の親憲は中風を患っていたともいう。

◆主君の上杉景勝は家中から畏怖されていたが、親憲は常のごとく接していたらしい。執政の直江兼続に対しても同様で、軍記もの等では兼続の批判者として何度か登場する。上におもねらず、また、家士や百姓に対しても気軽に声をかけ、慕われていたようである。

◆親憲の実子はいなかったとか、いたけれども夭折したのだともいわれている。夭折した子についての伝説もある。十一歳で亡くなったこの子は助市といったが、ある夜、親憲の夢枕に立ち、「父上が寺へ預けた馬ですが、脚が弱っているので乗れません。代わりの馬をください」と告げた。そこで、親憲がいい馬を選んで林泉寺に繋ぐと、その夜、ふたたび助市がやって来て、「これで心易く浄土へ参れます」と礼をのべて消えた。

◆親憲自身の最期も劇的である。元和二年五月十三日、上杉景勝が帰国する際、親憲は板谷峠まで出迎えた。待っている間、朋輩たちに馬を操ってみせ、「お年寄なのに達者なことだ」と感心させた。やがて、景勝一行がやって来た。平伏している親憲に気づいた景勝は、輿の中から「常陸。かわりはないか」と特別に声をかけたが、返事がない。主君の一行を待っている間に眠りこけてしまったのかと左右の郎党が抱き起こすと、すでに親憲の息は絶えていたという。

◆老人のくせに無理して馬をせめるから、と失笑する者もないではなかった。故人の懐中が膨らんでいるのに気づいた景勝の命で、親憲の懐中を探らせると、麺粉が出てきた。わずかの量でも飢えをしのげると言われている。親憲の質素倹約ぶりをうかがわせるものだった。その一方で酒宴では、景勝の面前で顔に白粉と臙脂をぬり、赤頭巾をかぶって舞を見せるなどの茶目っ気もあったらしい。「氷室の舞」とよばれたこの余興を景勝も好んだという。なお、死亡の場所は白旗松原、月日については五月二十二日という説もある。十三日は謙信の忌日であるため作為が感じられよう。




XFILE・MENU