156「天草に消えた男」



細川興秋(1583―1615)

与五郎、忠以。細川忠興の次男。はじめ長岡を称す。一時、叔父玄蕃頭興元の養子になるという。慶長十年(一六〇五)、弟忠利に代わって人質として江戸へ赴く途中、脱走。慶長十九年、豊臣秀頼の招きにより大坂入城。翌年、大坂落城の後、逃れ出て、伏見稲荷東林院に隠れた。しかし、大坂一味について父の怒りにふれ、六月六日自刃(月日は諸説あり)。一説に忠興に討たれたともいう。洗礼名ジョアン。法名黄梅院真月宗心。室は氏家宗入の女。

◆明智光秀による本能寺の変がおこった時、去就を迫られた細川家では、藤孝が剃髪して幽斎と号し、家督を忠興に譲った。忠興は妻で光秀の娘であるガラシャ(当時は受洗していないので、正しくは玉)を丹後の味土野という辺鄙な場所へ幽閉した。味土野にはガラシャ夫人隠棲の地として石碑も建ち、同地における夫人の様子を伝える逸話はいくつ残っているが、ここでは措く。

◆妻を幽閉しておきながら、異常なほどの愛を注いでいる忠興である。我慢できるわけがない。光秀を討った秀吉の目を盗んで、ひそかにガラシャを訪れた・・・はずである。でなければ、翌年四月十日、次男与五郎(興秋)は誕生しない。非常に微妙な誕生月である(笑)。ひょっとしたら、本能寺の変勃発直後、「ひょっとしたら、これで最後かも」と感じた忠興が幽閉される前に夫人と睦みあったのが「当り」だったということも考えられる。

◆生来、脆弱であったらしい。心配した母ガラシャは天正十五年(一五八七)、侍女の清原マリアに託して洗礼を受けさせた。洗礼名ジョアンという。セスペデス神父に宛てたガラシャ書簡には、受洗によって興秋は健康を回復したと記されている。

◆関ヶ原合戦当時、三男忠利は江戸へ人質に赴いていた。嫡男を廃嫡にした忠興としても、この間、徳川氏からの愛顧を受けた忠利を後継者にと望んだのは自然であったろう。慶長十年(一六〇五)、代わりに興秋が江戸へ人質として下ることに決した。

◆ところが、その途次、興秋は逐電。建仁寺に入って剃髪してしまった。弟忠利が家督を相続するのを憤ってのことであるという。その後は浪人となった上、事もあろうに大坂城に入ってしまった。やがて大坂の陣がはじまる。興秋の戦いぶりは「さすが細川殿御子息ほどこれ有り候」と評判となったというが、それが本当であったならば、細川家も無事に済んではいないのではないか。

◆大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。城方であった興秋は逃れ出て伏見稲荷東林院に潜伏した。父忠興は当然ながら細川家への帰参を許さなかった。興秋は同院で自害。『浪速戦記』によれば父忠興が手討ちにしたとも言われている。細川家の公式記録には、家康の赦免の沙汰があったにも関わらず、六月六日、松井右近の介錯によって切腹したことになっている。享年三十三歳であった。一女は南条元信の室となった。

◆ところが、興秋には生存伝説が残っている。何と尾張春日郡小田井村に潜んだ後、はるばる九州まで下って、天草郡の御領村に土着した。同所には江戸時代後期に建てられた墓がある。寺の統合にともない、興秋七世の孫であるという長岡興道が建てたものであった。脇には興秋を世話したという長野幾右衛門、渡辺九郎兵衛の墓もある。興秋の子孫は中村姓を名乗って大庄屋をつとめた。中村五郎左衛門興季(興秋の子)が初代であるという。二代以後、長野姓。九代目で長岡姓を名乗ったという。

◆興秋が本当に天草で天寿を全うしたのかどうかはわからない。海を隔てた熊本にはやがて弟忠利が五十四万石という大封をもって移ってきた。天草御領には九曜と二つ引きの紋付が伝来していたともいわれ、無碍に退けられないロマンを感じる。

◆天草伝説がもし真実であるならば、興秋は天草・島原の乱に遭遇していたはずである。ジョアンという洗礼名まで持っていたという興秋がキリシタン信者たちの苦闘を目の当たりにして何を思ったか。もちろん、乱に興秋が加わったという話は伝わらない。あるいは、棄教してしまったものか、それとも二度と世俗との交わりを求めなかったものか。




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