154「島津家最大の危機(前)」



梅北国兼(?―1592)

宮内左衛門尉。肝付氏の一族で、島津家家臣。兼弘の子。大隈山田地頭のちに湯之尾地頭。天正十三年(一五八五)、大友氏を攻める際、「御舟攻」を進言。文禄元年(一五九二)、朝鮮出兵のため、肥前名護屋へ向かう途中、加藤清正の属城である佐敷城を奪い、「梅北一揆」をおこした。佐敷城留守居衆によって殺害され、一揆は鎮圧された。

◆薩南の名家・島津氏。佐竹氏と並んで最も古い家格を誇るこの戦国大名家も、豊臣秀吉の九州出兵に抗し切れず、ついに九州制覇の夢を断たれて、中央政権の体制下に組み込まれた、はずであった。

◆だが、内情は他の外様大名である徳川、毛利、上杉などとは大きく異なっていた。秀吉の朝鮮出兵の命を受けて、渡海したのは当主義久ではなく、弟の義弘であったが、島津の軍団は自前ではなく借りものであった。挙句の果てには「名護屋へ能き時分に参り候得ども、船延引の故、日本一の遅陣に罷りなり」と義弘が記すような大失態を演じたのであった。その根本原因のひとつが、国許の面従腹背である。当主義久がいかなる思惑からか、中央の要求に従わないのである。

◆そして、平戸へ向かっていた島津隊が出兵に反対して、加藤清正の領地肥後佐敷城を乗っ取ってしまったのである。首謀者は梅北国兼であった。梅北は「船がない」という理由で、城下に宿をとった。そして、佐敷城留守居の安田弥右衛門のもとへ使者を遣わし、一方的に「太閤様のご命令で城を接収する」と称して、瞬く間に城を占拠してしまったのである。六月十五日のことであった。

◆加藤、小西といった肥後の大名はすでに渡海しており、領内は手薄だった。梅北は配下の山蜘(やまくも)という男を近隣に差し向け、一揆への同心を募った。

◆佐敷城留守居の境善左衛門と安田弥右衛門らは、相良氏に応援を頼む一方、女たちに酒の相手をさせ、梅北たち島津兵を油断させる挙に出た。女たちは「陣中見舞い」と称して鮒鮨と酒を持ってやってきた。ついつい暑気払い、と酒を過ごしてしまったのであろう、梅北らが酔っぱらった頃を見計らって、境、安田らが一斉に島津兵に襲いかかった。

◆梅北国兼はあえなく討ち取られた。一揆の勃発からわずか二日後のことであった。梅北の与党・田尻但馬、東郷甚左衛門らも残らず加藤、相良の諸勢に討ち取られた。梅北の首は、名護屋城に届けられ、浜辺に梟首され、胴体のほうは佐敷城下の五本松に埋められたという。墓標は平たい自然石で、銘はなかったらしい。

◆梅北一揆の失敗と国兼の死を聞いた一族や家臣たちは或は追い腹を切り、或は追討の憂き目に遭った。国兼の妻は名護屋へ連行され、火炙りの刑に処されたと伝えられている。フロイスは異教徒でありながら従容として死に赴く彼女を、さながら殉教者のように描いている。

「彼女は不思議なばかりの勇気をもって、当初から目を開き地面を見つめ、身動きもせず悲鳴や嘆声をあげることもなく、そのまま焼かれ、灰と炭骨と化するまで不動の姿勢を保っていた」

◆島津義久は梅北の叛乱をいち早く秀吉に言上するという素早い行動で、かろうじて改易の危機を免れた。「他家が先に通報していたら、島津の家は失われていただろう」と、義久は弟義弘に書き送っている。しかし、秀吉の追及の手はなおも弛むことはなかったのである。名護屋から薩摩に戻った義久を追いかけるように、秀吉の書状が届いた。

「家中に梅北を操った悪逆の棟梁がおるはず。十人が二十人になろうとも首を刎ねてよこせ」

◆ルイス・フロイスも『日本史』において、この事件のことを以下のように記している。

「兵士たちが朝鮮に渡った後、そして関白が名護屋に滞在中に、梅北と称する薩摩国の一人の殿が、かねてより世相を不快に思っていたところ、突如絶望した者のように己の運命を試そうと決意し、若干の部下を従えて肥後国へ侵入し、そして薩摩国王の命令で戦が始まり、関白を打倒するため日本の全諸侯が謀叛を起したと言いふらした」

フロイスは薩摩国王すなわち島津義久の謀叛は濡れ衣であったと記しているが、梅北国兼の妻の見事な最期と考え合わせると、埋もれた真実をそこに垣間見よう、という気持をおさえることができない。

◆梅北国兼は旧領・山田庄馬場において、その名も梅北神社に「神」として祀られ、その徳がたたえられている。その境内には維新の元勲・西郷隆盛の弟従道が奉納した石碑が建っている。なぜ、西郷従道が梅北国兼を顕彰したのか。彼は兄隆盛が征韓論を唱えると、これと袂を分かった。同じく秀吉の朝鮮出兵に反対した梅北国兼を顕彰したのではないかと想像するが、確かなことはわからない。歴史に消された英雄は今も静かに眠っている。



*補足調査
3月9日付の読売新聞九州版によると、佐敷城を舞台に起こった「梅北の乱」は史実では佐敷城占領僅か三日後に加藤家留守部隊によって鎮圧された事件として知られてますが、最近発見された新資料によると佐敷城を十五日間占拠し、結構大規模な七三〇人を動員し、しかも別働隊として八代城攻略部隊が別に千人とかなりの大部隊だったようです。これまで知られていた人数や日数に大きな隔たりがあるのは、おそらく「梅北の乱」が他方に影響を及ぼし各地で反乱が起きるのを恐れた豊臣政権が「梅北の乱」を小さな事件と印象付けさせる工作をした可能性もなきにしもあらずってところでしょうか。(X-file特別調査官:BANG)


XFILE・MENU