153「足半と黒白問答」



兼松正吉(1542―1627)

千熊、又四郎、修理亮。尾張国葉栗郡島村の人。姓はあるいは金松とも記す。織田信長のもとで馬廻り、豊臣秀吉のもとで黄母衣衆をつとめ、秀吉没後は徳川家康に仕える。慶長五年(一六〇〇)、上杉征伐に参加し、岐阜城攻め、関ヶ原の役に従軍。関ヶ原戦後、松平忠吉付きとして二千六百石を知行。忠吉没後、尾張徳川義直に仕えた。

◆泰平ともなると、戦国生き残りの名士たちを招いて「当時を語る」ことが流行ったらしい。将軍徳川秀忠も戦場で名を馳せた男たちから話を聞くことがあった。

◆秀忠が上洛する途中、熱田に逗留した折、兼松正吉にもお呼びがかかった。信長ファンであれば、兼松正吉と聞くと「信長から足半(あしなか)をもらった人か」と思い至るであろう。足半とは、足半草履の略称である。草鞋の半分の長さで踵がなく、機敏に動けるので、鎌倉時代より戦闘時に武士の間で用いられたもの。

◆もちろん、秀忠も足半のことは知っていて、しっかり質問事項に含められていた。ちなみに秀忠から兼松正吉に対する質問は次のとおりであった。

一.今川義元と織田信長の合戦が行われた際の功名手柄について
二.刀根山において、信長から足半を賜ったことについて
三.猪子内匠と兼松正吉とは、どちらが年上であったか。猪子のほうが年上と記憶しているがそのとおりか?

以上である。

◆秀忠からの下問は、老中土井利勝を通じて兼松正吉に伝えられた。桶狭間の合戦と、信長から足半を賜った話は問題なく答えたが、最後の質問について、兼松正吉は「自分のほうが猪子内匠よりも年上である」と回答した。

◆まずい、と土井利勝は思った。秀忠は記憶のよさを誇るところがある。兼松の答えをそのまま復命してしまうと、秀忠の記憶違いということになってしまう。俗に「上役が黒を白といったら、それは白なんだ」といったような話もあるではないか。調整役が天職ともいうべき土井利勝は、兼松正吉に「お答え」に関する指南を行った。

利勝「上様のお言葉のとおり、猪子を年上としてお答え申し上げよ」
正吉「いえ。ウソは申せません」

◆仕方なく、土井利勝はそのまま秀忠に復命した。秀忠は兼松正吉の正直なところをほめて、時服と黄金を褒美として与えた。秀忠の言うように「自分のほうが猪子内匠よりも二歳下です」と嘘でも答えていたら、褒美はもう少し多かったかもしれないが。

◆ところで、猪子内匠が織田信長の赤母衣衆をつとめた猪子一時を指しているのだとしたら、兼松正吉とは同じ天文十一年(一五四二)の生まれである。織田、豊臣、徳川と歴仕した経歴や秀吉のもとでともに黄母衣衆に選ばれた事蹟など重なる面も多い。年齢の件については、今に伝わる史料に拠るかぎりは、徳川秀忠の記憶も兼松正吉の自己申告も間違っていたわけだ。しかし、こんなことが質問として取り上げられるのも、猪子一時と兼松正吉が古強者として、しばしば比較されたせいではないだろうか。

◆自分のほうが年上だと言い張った兼松正吉の底蘊は図り難いが、案外、猪子に対するライバル意識が顕在化したのかもしれない。

◆兼松正吉は、元亀元年九月十四日、大坂での合戦でも一向衆方の長末新七郎を討ち取ったが、「今回、拙者はお手伝いですから」と朋輩にその功名を譲っている。足半ひとつの褒美で満足したことといい、無欲恬淡な人柄であった。

◆正直ではあるけれども、分を過ぎた野心は持たなかったのであろうか。大名になる夢も持たず、信長から貰った足半のエピソードがなければ、おそらく後世に名が伝わることもなかったであろう。そのシーンを『信長公記』から抜粋しておこう。

去程に、信長年来御足なかを御腰に付けさせられ候。今度刀根山にて、金松又四郎武者一騎山中を追懸け、終に討止め頸を持参候。其時生足にまかりなり、足はくれなゐに染みて参り候。御覧じ、日此御腰に付けさせられ候御足なか、此時御用に立てらるゝの由、御諚候て、金松に下さる。且は冥加の至、且は面目の次第なり。

◆ちなみに、兼松正吉は前夜陣触れがあることはわかっていたにも関わらず、信長が出陣したと聞くや、あわてて草鞋もはかずに飛び出していったらしい。『信長公記』にも冥加の至と記されたほどのことを、兼松自身は「別に大したことではございません」と誇る気配もなかったという。




XFILE・MENU