152「柳生宗矩死す」



柳生宗矩(1571―1646)

新左衛門、又右衛門、但馬守。柳生宗巌の五男。母は興原助豊の女。柳生新陰流兵法家。文禄三年(一五九四)、徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦に従軍し、戦功によって旧領柳生庄二千石を与えられる。将軍家指南役として秀忠、家光に仕え、いわゆる「江戸柳生」の祖となった。寛永九年(一六三二)、総目付に任じられ、後には大名に列した。著書に『兵法家伝書』『玉成集』がある。法名西光院殿大通宗活大居士。室は松下之綱の女。

◆いささか怪しげではあるが、渡辺幸庵という人物は恐ろしく長生きしたと伝えられる。加賀藩の前田綱紀が命じてまとめさせた『渡辺幸庵対話』に柳生宗矩と宮本武蔵の力量を断じた言葉が記されている。

「但馬にくらべ候てハ、碁にていハば井目も武蔵強し」

井目とは碁盤の目の所に記した九つの点のことである。対局者間で力量に差があり過ぎる場合は、調整として初めに弱いほうが九つの点にひとつずつ石を置いていくのである。このハンディは将棋の飛車角落ちの比ではないといわれる。幸庵はそれほど宮本武蔵と柳生宗矩の力量が隔絶している、ということを言ったのである。

◆宗矩と武蔵が試合った事実はない。それもそのはずで、将軍家指南役が一介の素浪人相手に気軽に試合に応じるほうが不自然だ。吉川英治の『宮本武蔵』では宗矩と武蔵は禅僧沢庵のはからいで一度顔をあわせている。沢庵という共通の知己を持っているからには何かしら接点があったはずだ、と考える向きもある。が、沢庵と宗矩との交友は数々の書状で明らかにされているものの、沢庵と武蔵の間には確かな交渉は認められないのである。

◆試合歴豊富な武蔵に比べて、柳生宗矩が刀をふるって人を斬ったのは、大坂夏の陣で徳川秀忠本陣が危殆に瀕した折、七人をたてつづけに倒した一例のみ、という説もある。宗矩自身も「兵法は人をきるとばかり思ふはひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也」と言っている。沢庵宗彭に師事し「剣禅一如」を唱えて泰平の世の兵法を模索したが、武功大名からは「新陰流は堕落した」と陰口をたたかれることもあったという。その力量は将軍家指南役という剣豪中最高の地位によって推し量るほかはない。だが、凄絶な試合とは対照的なのどかな逸話も何かを伝えてくれているのではないだろうか。

◆江戸城本丸に年老いた鶴が一羽、放し飼いにされていた。この鶴はあちこちの番所へ毎日のようにやってくるので、退屈しのぎに番所の役人たちが「嘴をつかまえよう」と競い合った。ところが老いた鶴も早々、つかまえられるほど鈍くはない。

役人「だめだ。この鶴の嘴をとることができる者は柳生但馬守どののほかには考えられない」

◆番人たちから話を聞いた宗矩は、やって来た鶴の嘴を難なくつかまえてしまった。番人たちが驚くと、宗矩は答えた。

宗矩「各々方のやり方を見ていると、手を差し出す時にはずみをつけて前に引く気持が抜けていない。それ故にはずしてしまうのだ。鶴が嘴をつきだしたところを、ただ真っ直ぐにとらえればよいのだ」

◆それからしばらくして、宗矩は病床に臥せった。間もなく不慮の病いで亡くなったという。それについて奇怪な噂がひろまった。座敷の長押の上をチョロチョロと走っていた鼠に気づいた宗矩が竹刀でこれを打った。ところが鼠は竹刀を伝って来て宗矩の指をガブッと噛んだ。その痛みに苦しみながらも、宗矩は人々がすすめる看病も薬も受けつけようとはしなかった。理由を聞かれて宗矩は答えた。

宗矩「われ剣術を磨いて既に数十年。飛ぶ鳥をも打ち落すほどにその道をきわめた。それなのに鼠を打ちそこねてこのような目に遭った。天命であろう。おそらくいかなる薬効をもってしても完治することはないであろう」

◆宗矩が死ぬと、時の将軍家光は何か問題がおこるたびに「但馬が生きていれば相談したいなあ」と懐かしがったという。

◆宗矩は非常な愛煙家でもあったらしい。キセルも特製の長大なものを作らせて襖越しに小姓に煙草を詰めさせて楽しんでいたという。ひょっとして、前述の逸話に登場する宗矩を噛んだ鼠とは煙草の煙、竹刀は煙草のキセルであったのではないか。そして宗矩は肺を患って亡くなったのかもしれない。それはそれで、剣豪には受入れ難い死であったに相違ないが。




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