150「ヤング六文銭」



真田信吉(1593―1634)

孫六郎、従五位下河内守。真田信之の嫡男。母は本多忠勝の女というのが通説だが、異腹説もあり。父信之が上田城に移った後、沼田城主となる。慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣に従軍。翌年の夏の陣でも戦功をあげる。寛永十一年十一月二十八日、疱瘡を患い、父に先立って没し、上州利根郡の天桂禅寺に葬られた。室は酒井忠世の女。

◆慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣が勃発すると、真田信之は出陣を差し止められ、嫡男である河内守信吉、内記信政が真田軍団を率いて上方へ向かった。生母大蓮院から「兄と弟、ふたりもいるのだからひとりくらい討死して忠節を尽せばよいものを」とひどい言われ方をした当の兄弟である。この時、兄信吉二十二歳、弟信政十八歳。

◆兄弟の初陣にしては、周囲の風当たりは強かった。何しろ大坂城には叔父真田幸村が籠城しているのである。徳川家康も大丈夫と強がってはいたが、大坂城に六文銭の旗が翻りはじめると、「河内め〜」と信吉が内応したものと早とちりした。この時、井伊直孝が進み出て、信吉を弁護した。

直孝「河内守は敵方に内応するような者ではござりません」
家康「フン。河内守の心情などがそのほうになぜわかるのか?」
直孝「河内守とそれがしとは衆道の契りを結んでおりますから」

理由もすごいと思うが、結局、井伊直孝の言うとおり、信吉の身辺に怪しい動きはなく、城方の旗も真田幸村の隊のものであることが判明した。

◆大坂城内でも真田兄弟の存在は話題になっていたらしい。木村重成は幸村の甥たちが寄せ手にいることを聞くと、鉄砲で狙わないように自分の隊に注意したという。また、真田信吉・信政の兄弟が若いのを侮って「陣地は隙だらけだろう。ひとつ夜討ちをかけてやろうか」と計画をたてる者たちがいた。

◆よしたほうがようござるぞ、とニヤニヤ笑いながら忠告したのは誰あろう、兄弟たちの叔父真田幸村。

「今度の陣にわが兄伊豆守が出陣していないということは、家中のいくさ功者を揃えて若輩どもを助けているに相違ござらん。この老人たちは小競り合い、夜討ちには物馴れしている者たちです。また、若い者は雪が二丈も積もる北信濃に生まれ育ち、雪どけ水や氷の上も平地を行くがごとく歩行し、山に入って鹿や雉を狩って過ごしております。その上、伊賀甲賀者に百倍するほどの窃盗自慢の悪たれ揃い。敵の夜討ちはまだか、と手ぐすねひいて待っておるやもしれませぬぞ」

◆幸村の言葉は脅しの意味も多少含まれていたかもしれないが、半分は当っていた。この時、寄せ手の真田隊には昌幸時代からの老功の士、矢沢但馬、木村土佐、半田筑後、大熊伯耆らが信吉・信政兄弟を補佐していたのである。

◆池波正太郎の『真田太平記』でも冬の陣講和直後、信吉・信政兄弟の陣所へ幸村が訪ねるシーンが描かれている。非常に気持のよい場面なのだが、『翁物語』が記す叔父甥会見の様子はすこし違う。叔父とは言え、幸村は身分は高野山に流罪となった浪人者。かりにも信政は真田家の惣領である。しかし、幸村は叔父の立場で上座にどっかと座ったという。以下は幸村の信吉評である。

御辺四才の時対面して後、今夜初めて也。思いのほか成人となり、器量骨柄世に越えて覚えたり。伊豆守殿も年寄たまう共気遣いなし。

◆この後、信之に会いたいなあと述懐するのだが、信吉が弟内記信政を紹介しても幸村は会釈するだけで、とうとう信吉としか話さなかったという。稀代の戦術家である幸村と信吉の間でかわされた言葉は、短い、火花のような応酬のみである。

信吉「今度は思いきったところに砦(真田丸)を築かれましたね」
幸村「天下の兵が相手ですから尋常な手段では勝てませぬゆえ」
信吉「和睦にならなければ、寄せ手によってとりひしがれてしまったことでしょう。ご無事で何よりでした」
幸村「ハハハ。あの砦をとりひしぐ? それは、ちと骨でしょうな」

◆それにしても、幸村と信吉が談じている側で、手持ち無沙汰の信政の心境はいかばかりであったか。小説とは違っていささか緊張感みなぎる会見であったが、その後、幸村旧知の家臣たちを呼び出して、宴会になったという。




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