148「荷の過ぎた小船」



岡部長盛(1568―1632)

半弥、弥次郎、内膳正、従五位下。今川義元の家臣次郎右衛門正綱の子。父正綱は今川、武田に歴仕、後に徳川家康の家臣となる。天正十一年(一五八三)、父の死により家督を継承。長久手の合戦などに従軍し、戦功によって上総・下総で一万二千石を与えられる。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦では下野国黒羽を守り、上杉景勝の軍勢に備えた。丹波亀山城主を経て、元和七年(一六二一)、福知山五万石を領した。寛永元年(一六二四)、大垣城主となった。美濃瑞巌寺に葬られる。法名全室久要雄心院。

◆家康に過ぎたるもの、唐の頭に本多平八。三成に過ぎたるもの、島の左近に佐和山の城。分不相応な持ち物を揶揄していった言葉であろうが、決して徳川家康や石田三成が暗愚だというのではなく、いい物持ちであるということを賞賛し、羨ましがっているところが真意であろう。徳川さまはよい人持ちよ、という俗謡もあるくらいだ。

◆だが、持主が少壮に過ぎると、こうした言葉も辛辣になってくる。今川義元・氏真、武田信玄・勝頼に仕えた岡部正綱が亡くなった時、後嗣である長盛が弱冠十六歳であった。岡部家は藤原南家の流れを汲む工藤氏の末裔で、『吾妻鏡』にも登場するほどの由緒ある家柄。戦国時代になって今川・武田に歴仕し、他国にまで知られた家である。当然、名の通った侍たちを大勢召し抱えていた。その歴戦の勇士たちを束ねるのがわずか十六歳の長盛である。世間は「小船に荷の過ぎたるよ」と評した。

◆これを気にしたのは、長盛ではなく三人の家来たちだった。桜井縫殿助、大塚八右衛門、剣持次郎右衛門である。この三名は亡き正綱から遺児長盛のことを託されていた。

桜井「このような風評がたっては、今度の戦で三人のうちの誰か一人は討死しなければ、岡部家は安穏ではいられないだろう。わしが討死するとしよう」
大塚「ちょい待ち。わしは信玄公から武田家譜代にも禁じられた特別な旗印を許された身だ。討死するのはわしの他にはない。貴公ら両名は生き残って若殿に忠勤を励んでもらいたい」
剣持「いやいや、そうは参らぬ。わしは信玄公ならびに家康公の御前にも罷り出て、その覚えめでたい。剣持討死と聞けば世間も納得しよう」

◆こうなっては、意地の張り合いになってしまう。三人とも自分が討死すると言い張って聞かない。もっとも強硬に主張したのは言い出しっぺの桜井で、

桜井「三人とも討死すれば、世間も納得する者ばかりだ。だが、他の二名は長盛さまについていてやらねば、亡き殿との約束を違えることになる。ここは、ご両所、よくよく分別し、真っ先に言い出した拙者に譲ってくれい」

◆こうして、桜井縫殿助討死、と決まった。舞台も天下人として上昇気運の真っ只中にある羽柴秀吉を相手の長久手の合戦だ。岡部長盛の部隊も家康に従って出陣する。岡部家とともに先陣にたつのは大須賀康高、榊原康政という名だたる大将である。桜井は真っ先に討って出て、羽柴秀次の軍勢相手に壮烈な討死を遂げた。この戦闘で長盛も首級二ツを獲て、その戦功を世間に知らしめた。

◆岡部家の奮戦ぶりと、桜井縫殿助の最期を聞いた人々は二度と「小船に荷の過ぎたる云々」とは言わなくなった。

◆岡部長盛はよくよく家来には恵まれた男で、信濃丸子表の合戦では家中七名が感状を賜った。七名の勇士とは以下のとおりである。

鎗、小鹿又五郎
鎗脇弓、奥山新六郎
鎗下高名、所藤内
場中高名、近藤平太
崩際高名、内藤久五郎
崩際高名、向山久内
高名、笛吹十助

一説には七名ではなく九名であったともいう。長盛もこの合戦で、八月二十六日に感状を受けた。

◆荷の過ぎた小船と呼ばれた岡部長盛は、領国こそコロコロかわったが、小刻みに加増を受け、ついには福知山で五万石を領する身となった。さらにその子宣勝の代にいたって岸和田藩六万石にまで発展した。大船といってもよいだろう。家臣たちの奮闘は言うまでもないが、長盛自身の、人を容れる器も成長するにつれて大きくなっていったのであろうか。




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