146「刃向かえ。而して敬え」



佐野昌綱(1529?―1574)

小太郎、周防守。秀郷流藤原姓足利氏の末流。下野国唐沢山城主。豊綱の男。あるいは桐生佐野氏から養子に入ったともいわれる。はじめ長尾景虎(上杉謙信)に与したが、離反を繰り返し十余度も上杉軍の攻撃を受けた。一時、上杉家の城代による支配を受けたが、臣属することはなく自立を保った。天正二年四月八日没、法名天山道一居士。本光寺に葬られた。

◆天正七年(一五七九)六月、佐野家の家老山上道牛は京都にいた。表向きは京都観光であったが、彼には亡君から託された用事を果たす目的があった。彼の主君である下野国唐沢山城主佐野昌綱は、上杉謙信に叛旗を翻すこと数度、時には膝を屈して降伏した時もあったが、ついに臣従せず、自立を保った男である。

◆道牛の脳裏に五年前に亡くなった昌綱最期の様子がよみがえる。

道牛「本当は謙信どのが好きだったんでしょう?」
昌綱「な、何をたわけたことを申すか」
道牛「かまって欲しかったから、何度も謀叛したんでしょう?」
昌綱「・・・・・・」

◆道牛は「エート」と懐から紙片を取り出した。

道牛「遺言その1、自分の画像を京都の有名な画工に発注するべし、か。東国にも武田逍遥軒どのとか絵がうまい方が多いから、そっちのほうへ依頼したほうが安く済むと思うのだが。もっともあの武田のことだ。越後の家督争いに介入して東上野と黄金をせしめたように、法外な値段をふっかけてくるやも知れぬな」

◆道牛が依頼したのは、狩野元信の三男松栄直信である。代表作は大徳寺の「涅槃図」、聚光院襖絵の「瀟湘八景図」などなど。といっても凄さは伝わらないだろうが、有名な狩野永徳の父である。肖像画においても益田元祥(毛利家臣)や吉田兼右などの作品があるので、うってつけ。

◆ところが、画家に頼むにしても、下野のかたすみで片意地張るように生きてきた佐野昌綱の顔など、京都で知っている者は誰一人いない。仕方なく道牛は狩野松栄の質問に答えながら、減点パパ(故・南シンスケが子どもたちに質問しながら父親の似顔絵を描いていく「お笑いオンステージ」の名物コーナー)状態。

道牛「もう少し丸顔」
松栄「だいじょうぶか? おじちゃん、知らないよ」
道牛「もっと丸くてもいい」

◆こうして出来あがった佐野昌綱の肖像。派手好きの京都の画家の手によって虎の皮の上に座らされ、小袖に秋草模様の肩衣、州浜の柄の継袴。首から掛絡(くわら)をさげ、右手に金の扇を持った珍妙な格好に。

道牛「遺言その2、賛は有名な坊さんに頼むべし、か」

◆道牛が依頼した相手は策彦周良。西国の大名大内義隆の要請によって明へ使者として赴くこと二度。天竜寺妙智院第三世となった五山の代表である。よくツテがあったものだと思うが、この策彦周良は甲斐国にもやって来ている。東国にもそれなりの交友関係が存在していたのかもしれない。その賛にいわく、

「幼年の頃より材智人に越え、勇力絶倫なり、成長の後、軍略に秀で、殊に鎗術に妙を得、仁恵ありて民をあわれみ、近国の諸将と和し、管領家を尊び、無二の志をあらはされけり」

◆ウソばっかり、と道牛は唖然となる。本当だったら「幼年の頃より奸智人に越え、精力絶倫なり、成長の後、謀略に秀で、殊に謀叛に妙を得、近国の諸将と抗し、管領家を蔑み、二股膏薬の志をあらはされけり」こそ相応しい・・・・・・と道牛は内心思うのであった。

◆だが、ここで道牛は遺言の三ヶ条目を思い出した。

昌綱「道牛、頼む。わしが死んでもすぐ墓を建てるな。謙信公が亡くなったら、その一周忌に墓を建ててくれ。墓碑には謙信公の命日と同じ日を刻んでくれ」
道牛「好きでしたって、刻みましょうか?」
昌綱「そ、それは恥ずかしい。やめてくれ」

◆そういうわけだかどうかは知らないが、昌綱の墓は天正二年に彼が亡くなってから五年後、謙信が急死した翌天正七年に建てられた。本光寺にある墓碑には三月十三日と刻まれている。「佐野系図」には四月八日と記されている佐野昌綱の命日であるが、なぜ本光寺の墓には三月十三日と刻まれているのか。それは謎である。

◆時代は下って江戸中期。庶民の読み物として流布した『関八州古戦録』には、北条氏を相手に唐沢山城に拠って孤軍奮闘する佐野昌綱を救援するべく、わずかな供まわりを引き連れ包囲軍を突破して入城した上杉謙信の武勇談が描かれている。昌綱は駈けつけてきた謙信の馬の轡にすがって感涙にむせんだ、という。本来ならば、反覆常ない行動で謙信を翻弄させたわけであるが、不思議と軍記の世界では悪名を免れているのである。




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