145「トラよ!トラよ!」



車斯忠(?―1602)

丹波守、猛虎、義照、忠次。常陸国車城主・車兵部大輔義秀の子。佐竹義重の側近として出頭。一時、勘気を蒙り岩城氏に身を寄せ、伊達氏と戦う。慶長元年(一五九五)、岩城郡神谷座主砦に拠る。慶長五年、兵卒三百を率いて上杉景勝に仕え、福島・梁川の在番となり伊達勢と戦う。戦後、浪人。出羽へ転封された佐竹の居城水戸奪回を画策して失敗し、女婿大窪久光、馬場政直らとともに捕らえられて刑死した。子の善七は一命を許されて近世江戸の四ヵ所非人頭の一人になったという。

◆新羅三郎より伝えたるこの城を徳川ごときに渡せるものか。主家佐竹の出羽転封に従わず、徹底抗戦を唱えた車丹波斯忠は、火の車の指物をかざして城を接収しにやってきた徳川勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、大軍に押し包まれ、ついに磔刑(あるいは斬首)に処せられた。磔柱には白練四幅火輪車の旗指物が縛られていたという。それを伝え聞いた徳川家康は嘆じて、次のように言った。

家康「武家の道を知りたる者を空しく殺しけるよ」

◆だが、別の説もある。家康は会津征討軍を襲う急先鋒として、車丹波を敵視し、関ヶ原戦後、佐竹義宣にその引き渡しを迫った。窮した義宣は、車丹波を捕らえて江戸へ送還した。

家康「強諫反復もなすべき身を、其の悪をむかふるの罪、尤深し。悪むべきにたへたり」

そう言って、家康は車丹波を磔刑に処したが、いったい、どちらが本当だったのであろうか。

◆車、というのは珍しい姓である。この姓から多くの人々が連想するのは、山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズの主人公、フーテンの寅こと車寅次郎であろう。そういえば、良質の史料には見えないが、車丹波の実名を猛虎(タケトラ)としているものもある。車という姓、虎(寅)という名。さらには、江戸非人頭となって別世界に生きた息子善七(猛虎とは善七の実名との説もあり)。山田監督の脳裏には車丹波という叛骨の武将のイメージが醸成されて、あの不滅のキャラクターが産み出されていったのではないだろうか。

◆車寅次郎のネーミングの由来には、俥屋を生業としていた無法松(映画『無法松の一生』の主人公・富島松五郎)から採ったとか、いろいろな説が提出されているが、どれが本当かはわからない。ただ、無法松にせよ車善七にせよ、映画を観る者をして、社会の底辺で生きる者たちに想いをいたす、ということは共通して言えそうだ。また、商売の神様と呼ばれる車折神社の別称は桜大明神。そして、車丹波の居城といわれる車城の周辺には桜野、桜井といった地名が点在する。寅さんの妹さくらまでもが、と空想するのは楽しいが、これは偶然であろう。

◆無法松は下層民という設定である。映画は戦没軍人の寡婦との恋が問題となってズタズタにカットされた。帝国軍人の妻が身分卑しい男と恋仲になるなど、当局が看過するはずもなかったのだ。寅さんの恋が実らないのも、「男はつらいよ」と言ってばかりいられない秘められた理由をそこに感じてしまう。「とらや」の店内では威勢がいいが、どこか世間に遠慮しているようなおいちゃん夫婦や妹さくら。時にマドンナのほうにその気があっても、寅さんのほうから身を引いてしまうシーンが何度か出てくるのも何やら象徴的である。

◆さて、家康に斬られた丹波の息子善七は復仇を誓って家来を乞食の中に潜ませ、自らは将軍家の御草履取り(庭作男とも)となって機会をうかがった。が、やがて露見してからめ取られる。引き据えられた善七を見た家康は、これを許し、「其の孝義勇壮を感じ給ひ、追って有司に命ぜられて、乞食の徒の首領と」したという。子孫は浅草弾左衛門の支配下に入り、代々、車善七を世襲したという。

◆もっとも、車善七の非人支配の裏には別の事情もあった、と説く書もある。かつての自分の手下や、佐竹旧臣などが落ちぶれて乞食となって江戸市中を徘徊していた。車善七は子孫に対し、「彼等を束ね、逸材があれば五十人百人の長となし、ふさわしい部署を与えよ。天下に事があればこの徒党をもって再び武門に帰り咲くように」と遺言したとも言われている。

◆今回は二人のトラさんに関する問題ということで、タイトルもアルフレッド・ベスターの傑作SF「虎よ、虎よ!」から採った。いや、ブレイクの詩からといったほうがより正確であろうか。

虎よ! 虎よ!
ぬばたまの夜の森に燦爛と燃え
そもいかなる不死の手のまたは目の作りしや
汝がゆゆしき均整を
フーテンの寅が逝って、七度目の夏に。


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