143「樫井太兵衛氏の生活と意見」



樫井正信(1569?―?)

太兵衛、内蔵丞。和泉国樫井の出身。織田信孝、中村一氏、木村清久、小川祐忠に歴仕。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦で小川勢が寝返った折、大谷吉継隊を攻撃し、平塚因幡を討ち取るという。小川家没落後、山内一豊に召出され、千二百石を与えられる。一時、山内家を退き、寺沢家に仕官するが、慶長二十年、帰参。室は桑津次郎兵衛の女。

◆饐えた臭いのする路地を抜け、約束の時間きっかりに、私はポン・ヌフのたもと、指定されたカフェーへ着いた。相手はもう来ていた。サングラスと擦り傷が目立つ皮ジャンに身を包んだ樫井太兵衛氏はすでにいらついているようだった。

樫井「兄ちゃんだな、ワイをおちょくってくれたんは」
筆者「おちょくってなどいません」
樫井「阿呆。ワイかてネットサーフィンしとるねんで。兄ちゃんのサイトで、ワイが平塚為広に討たれておッ死んだことになっとるやんけ」
筆者「そ、それは山鹿素行がそう書いているからです」
樫井「フン。素行もクソもあるかい」

◆樫井太兵衛氏はやおら皮ジャンから無造作に突っ込んでいたらしい、紙切れを取り出した。

樫井「あけてみ」
筆者「これは・・・・・・首帳じゃないですか!」
樫井「そういうことや。見てみいな、ココ!」

◆樫井氏が渡してよこした紙には「首帳写」とあり、赫々たる戦歴が記されていた。十六歳の時(これは中村式部少輔に仕えていた時であろうか)、四月二十一日、和泉岸和田の朝合戦で首級二ツ。同日晩の合戦に首級一ツ。織田信孝に仕えていた時に一番駈けして忠勤を励み、お誉めの言葉を頂戴(四国渡海直前から本能寺の変直後の時期であろうか)。木村伊勢守の家来の時に佐沼籠城戦で首級二ツ(これは奥州で一揆に包囲された時であろう)。河内にて首級一ツ。関ヶ原の合戦で平塚殿の首一ツ。中村式部少輔の家来の時に和泉の沢の城で「たいこうまか定」の首級一ツ。

樫井「どうや、ひらつか殿のくびって書いてあるやろ」
筆者「本当だ。あ、岸和田の合戦が天正十二年(一五八四)のことを言っているのだとしたら、この時十六歳でしょう、その前に織田信孝に仕えていなければならないことになりますよね。あ、最後にまた式部殿に居申し候時って書いてある」
樫井「か、書き忘れたんや」
筆者「たいこうまか定の首。これって誰のことですか?」
樫井「忘れた」
筆者「順番に書いてあるわけではないんですね」
樫井「そんなことはどうだっていいんや。次はこれや」

◆樫井氏は続けて別の書簡らしきものを取り出した。ていねいにシワを伸ばしたあと、バンと紙面を叩いた。

樫井「これは山内の殿さんがワイによこした手紙や。ほれ、差出年月日見てみいな」

◆慶長二十年十一月十二日に山内忠義が書いた書状の写しである。これは当時、寺沢志摩守に仕えていた樫井太兵衛を召し返す折に書かれたものであるらしい。内容は加増三百石。そのうち二百石は鉄砲、百石は自分に扶助することととある。これが本物とすれば、樫井太兵衛が平塚為広によって関ヶ原の合戦で討たれるようなことはない。

筆者「あれま、加増とは前に山内家にいた時の知行に加増という意味だったんですね。寺沢家のほうが千八百石。山内家は千五百石だから、給料実質ダウンですね」
樫井「じゃかァしい。どや。これではっきりしたやろ。関ヶ原でワイは死んでへん。さあ、このオトシマエ、どうつけてくれるんや! ア?」
筆者「オトシマエといっても・・・・・・」
樫井「ほなら、ワイがオトシマエのつけかた教えたろ」

◆樫井太兵衛氏はゆらりと立ちあがった。

樫井「ワイを主人公にしたXファイルを書け。書くんや。平塚為広も出しといて、ワイを無視するんか? ワイはきゃつの首とってんねんで。ワイのほうが強いんやで」
筆者「わたしはわたしが書きたいものを書く。それだけです」
樫井「上等やないか。この首帳にもう一行加わるのも悪くはねえな、ア?」

樫井氏の唇がややゆがんだようだった。その手が皮ジャンの内側へ差し入れられた。飛び出してくるのは拳銃か、それともバタフライナイフか。わたしは、みぞおちからググッとこみあげてくるものを覚えた。いつの間にか、樫井氏もわたしも甲冑に身を包んでいた。馬蹄の轟きと銃声と怒号が響く中、樫井氏が大音声で呼ばわった。

樫井「平塚因幡どのとお見受けいたす、小川土佐守家来、樫井太兵衛。いざ、参るッ」

◆裏切り者め〜、と知らず知らず口走っているわたしの眼前へ、血走った眼と剥き出された歯茎が迫ってきた。



筆者註:本ストーリーのもととなった事項は、XファイルNo.134平塚為広の回について、ぴえーる氏のご指摘をもとに筆者が構成したものです。ここに重ねて御礼申し上げます。なお当方、関東者のため関西弁に怪しい点も多々ありますが何卒ご寛恕願います。

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