139「小笠原家再興に賭けろ」



二木重高(?―?)

豊後守。信濃国中塔城主。天文十七年(一五四八)、塩尻峠の合戦で小笠原長時に従っていたが、武田氏に寝返る。のち小笠原氏に帰参し、天文十九年、野々宮の合戦の功により二木の姓を許された。小笠原長時の越後亡命後は信玄に従い、二木の地に住す。弘治二年(一五五五)、洗馬の三村勢が深志城を攻撃した際、入城して抗戦。戦功によって八十貫の加増を受けた。

◆信濃国守護職の小笠原家というのは、武田氏の勃興によって衰退の一途を辿ったのだが、その命脈はなかなかシブトイものがあった。戦国の世が終ってみれば、武田氏はわずかに旗本として家名が残ったきり。対するに小笠原氏は深志・松尾の二流ともに豊前小倉十五万石を筆頭に大名に列し、それなりに隆盛した。その運命をわけたものは何なのか。

◆武田信玄の信濃併呑によって、いったんは滅亡の憂き目にあった小笠原氏は、当主長時が長尾景虎を頼って越後へ、ついで上方の三好氏を頼って亡命生活を続けていた。京都へ上る際、長時は二木という一族に対し、信濃に残って小笠原家再興の種となってもらいたい、と託したのであった。この二木一族の活躍というか、忍従こそが、のちの近世大名小笠原氏を誕生せしめたといっても過言ではない。

◆二木一族は大日方上総の口利きで、信玄から二木の地を安堵され、そこに還住していた。ところが猜疑心の強い信玄はこの一族に心を許さなかった。折しも小笠原時代から二木一族とは犬猿の仲だった洗馬の三村氏が事あるごとに信玄に讒言した。

「二木は小笠原長時を飛騨まで呼び寄せ、主家の再興をはかっております」

◆信玄は三村の讒言に激怒し、二木一族のおもだった者に対し、甲府へ出頭するよう命じた。疑いをかけられた二木一族は急遽、一族会議を催した。「甲府へ行けば必ず殺される。いっそ中塔城へ籠城し、一戦交えようではないか」と勇ましい意見を吐く者もあったが、二木重高はこれを制した。

重高「それでは一族の全滅は火を見るより明らかである。甲府へ出頭し、精一杯の申し開きをし、運を天にまかそうではないか」

◆結局、一族は重高の意見を採り、おもだった者たちが甲府へ出仕した。が、意外にも甲府では三村氏との対決の場が用意されていた。信玄は山県昌景に二木一族謀叛の真偽を、三村氏と二木氏の対決によって究明せよ、と命じていたのである。

◆宿敵三村氏との対決の場には重高が臨んだ。重高は「旧主長時の居所さえ知らないのに、どうして信濃へ引き入れることができようか」と潔白を主張した。信玄は物陰に隠れて訴訟のなりゆきを聞いていたが、結局、二木氏を断罪することは躊躇せざるを得なかった。二木一族は処刑を免れ、在所へ帰ることを許されたのであった。

◆ところが、二木氏を訴えた三村氏のほうが武田家への叛意を抱いていた。三村氏の拠る筑摩郡に叛乱が勃発した時、信玄は「重高に図られたか。張本人は二木一族に違いない」と口惜しがった。

◆一方、三村の乱に「これぞ、汚名返上の好機」と二木重高らは深志城へ赴き、武田家への忠節を示すため、入城して三村と戦いたい旨を城将馬場民部に伝えた。馬場も信玄同様、二木を疑い、城へ入れることを拒んだ。

重高「ご覧のとおり、女子供を連れており申す。これは武田家へ差し出す証人でござる」
馬場「主命がないかぎり、むやみに城へ入れることはでき申さぬ」
重高「いたしかたない。入城の許しが出るまで野宿いたそう」

◆城外の馬出しで女子供を含む二木一族は一夜を明かしたと聞き、さすがの馬場も折れて、城へ入ることを許したのであった。信玄はその報告を聞いて、不思議そうな顔をしたという。おのれの判断力が、ついに人の至誠を見抜けなかったことへの忸怩たる思いが去来していたのだろうか。権謀をもって興った武田家は滅び、至誠を貫いた二木家は生き残る。だが、「小笠原家再興」の大命題のためには、憎き敵将信玄の信任をも勝ち取れ、という二木重高の至誠こそは最大の権謀と言えなくもない。

◆二木一族は武田家の信頼を勝ち得、その滅亡後も信濃で活動を続け、ついに小笠原家再興を実現させるのである。慶長十六年(一六一一)、小笠原秀政は二木寿斎に命じて、その苦闘の歴史を記録に残すように命じた。それに応えて成ったのが『二木家記』である。二木寿斎は重高の嫡男であった。




XFILE・MENU