137「シリーズ浅井一族・守成の二代目」



浅井久政(1526?―1573)

新九郎、左兵衛尉、下野守。近江国小谷城主浅井亮政の子。六角氏の一族で亮政の養子となったとする説もある。父の死により家督を継承。近江の京極・六角両守護との対立により苦境にあったが、六角氏に接近してこれと同盟を結び、事態打開を図った。永禄三年(一五六〇)、家臣団の意志に従い、家督を賢政(長政)に譲って隠居。織田氏と同盟したが、信長の違約により断交。小谷城を攻められ、自害した。室は井口経元の女阿古御料。

◆浅井一族の中で、亮政は知名度いまひとつで、まずは長政の人気が高い。妻に織田信長の妹で美人と評判のお市をもち、その間に数奇な運命をたどる三姉妹をもうけたこともさることながら、父や老臣たちの頑迷さによって前途有望であった長政の短い生涯を惜しむ気持もあるのではないだろうか。

◆それに反して、二代目下野守久政の評判が芳しくない。因循姑息、優柔不断と貶められているきらいがある。

◆まず、久政がどのような事蹟をのこしたかが分明でない。亮政の台頭と、長政の華々しい登場に挟まれて、久政のイメージが一般に共有化されていないきらいもある。

◆久政の人気の低さは、現代の戦国ファンのみの話ではなく、当時の浅井家中でもそうだったらしい。理由は、亮政以降の政策路線の転換にある。これまで浅井氏は近江南半国の守護・六角氏と敵対し、越前朝倉氏と結んでいた。が、久政はこれを改め、六角氏に接近する姿勢を打ち出したのである。その政策の結果のひとつが嫡男長政の婚姻である。久政は息子の嫁に六角氏の家臣平井加賀守定武の娘を迎えた。このため、長政は最初、六角義賢の偏諱を受けて、賢政と名乗っていたのである。つまり、久政の事蹟は「対六角融和策」ということに集約できる。だが、久政の方針を、家中でも不満に思っていた者が多かったらしい。

◆父や息子よりも器量が劣ると片付けられてしまっては、久政が気の毒である。父亮政は京極・六角という近江両守護家を敵に回したまま、急死してしまったのである。しかも堅固な小谷城に籠るというほかに何の希望も見出せない状況にあった。現実家の久政は二方の敵を一方に減らしたいと考えたのであろう。それが、六角氏への接近だった。戦略・政策の転換というのは地味なようで戦争よりも困難をきわめることが多い。

◆父の死によって、異母兄田屋明政と対立した久政には、六角氏との同盟しか選択肢はなかった。京極氏が田屋明政を後援したからである。異母兄との争いに勝った久政ではあったが、待っていたのは六角氏に対する実質的な服属だった。久政の苦渋の選択が、六角家臣平井定武の女を娶らされた息子長政や家中の急進派からは「惰弱」と映ったようだ。久政は「家中の総意」ということで隠退し、長政に家督を譲った。一説には家臣たちが鷹狩りに出かけた久政を竹生島に幽閉し、長政に家督を譲らせたとも云われている。

◆浅井家中における久政の人気の低さが、亮政の勢力伸張、長政の活躍に対比されたものであるらしいことは前述したが、もうひとつ、久政には出自に対する問題を抱えていたのではないか。彼は六角氏の出身で浅井亮政の養子となったとする説もあるのである。元来が京極の家風にあった浅井家中からしてみれば、久政は「異分子」だった。

◆やがて、長政の代になって、野良田表の合戦で六角氏を破り、やがて織田信長と同盟を結ぶ。平井定武の娘はとうに六角家は送り還されていた。ここに久政の政治路線は完全に断ち切られてしまったのである。

◆天正元年(一五七三)、織田軍の包囲の輪は次第に小谷城の諸郭にも及び、京極丸に入った久政も最期の時が迫ったことを自覚していた。京極丸はかつて父亮政が迎えた京極高清・高広父子の御座所であった。久政は井口越前守を呼んで言った、

久政「今よりわしは腹を切る。しばらく敵勢が入らないように防いでくれ」

このあたりは、是非に及ばず、と言って自害した織田信長に劣らない潔さがにじみ出ている。

◆京極丸を守備するのは、井口越前守、赤尾清定、千田釆女正、脇坂久右衛門らだった。彼らが織田勢を防いでいる間に、森本鶴松大夫という久政お抱えの舞いの上手が久政にお酌をした。久政は三度盃をかたむけた。その後、近侍の浅井福寿庵、鶴松大夫と盃をとらせていった。この両名は久政に殉じる心算だった。

◆まず久政が切腹し、これを浅井福寿庵が介錯した。次に福寿庵が切腹すると、これを森本鶴松大夫が介錯。森本鶴松大夫は、主君と同じ座敷では恐れ多いと言って、一段下の縁へ飛び降り、そこで腹を掻き切った。表で防戦していた脇坂久右衛門もこの光景を見て、追い腹を切った。

◆久政切腹の翌日、息子の長政も自害し、ここに江北浅井氏は滅亡した。




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