135「鼻毛殿の人物評」



前田利常(1593―1658)

猿千代、犬千代、利光、筑前守、肥前守、従三位中納言。前田利家の四男。母は朝倉家遺臣山崎肥前守の女(寿福院)。慶長十五年(一六一〇)、兄利長の跡を嗣いで加賀第三代藩主となる。大坂冬・夏の陣に功をあげ、参議に任ぜらる。寛永十六年(一六三九)、小松に隠居したが、嗣子光高の急死により孫綱紀を後見する。幕府との緊張緩和に意を注ぎ、農政では改作仕法を導入した。室は徳川秀忠の娘珠姫。

◆当コーナーにおいて、筆者は謎めいた逸話を取り上げても、ある解答のようなもの(仮説のひとつと受け取ってもらって構わない)を添えて提供することが多いが、今回だけはまるっきりお手上げである。どうしてこういう話が生まれたのか、その背景もわからないし、この話を聞いた記録者が「わが意を得た」と納得してしまう点もわからない。

◆前田利常といえば、鼻毛をのばして幕府の警戒心を解くことに腐心した名君、ということになっている。

◆利家は「亜相公夜話」をのこしたが、こういうものは遺伝するのか。子の利常もこれにならって、談臣と名づけた話し相手の家臣数名を選んで、古今の英雄や事件などを論じた。これが「利常公夜話」として伝えられている。その中に奇怪というか、腑に落ちない一話が載せられている。

◆ある夜のこと、談臣のひとりが利常にたずねた。

談臣「豊臣太閤は英雄として見た場合、いかがでしょうか?」
利常「太閤の器量は天性のものというべきで、他に比類がないであろう」
談臣「では、織田信長はいかがでございましょうか?」
利常「そうよのう、勇気があって、戦に強いことにかけては他を圧倒しておるであろう」
談臣「上杉謙信は?」
利常「謙信は常人が及びもつかないほどすぐれておる」

◆ここまではよい。いや、秀吉・信長・謙信のそれぞれの利常評に異論がある方もあろうが、とりあえず「納得」してほしい。問題はその後である。

談臣「それでは、武田信玄についてはどうでございましょうか?」
利常「信玄は心が小さくて浅慮で、見識は卑しくて料簡が狭い。取り立てて言うべきほどのこともない」

◆信玄ファンが聞いたら激怒するような利常の人物評価だが、この逸話を『近古史談』にまとめた大槻磐渓は、

「此の論、実に我が心を獲たり。録して以って此の巻の圧尾と為す」

とまで言っているのだ!。

◆武田信玄は、現代では経営戦略における神様のひとりである。筆者は別に信奉しないが、そっちのほうの人気では信長・秀吉・家康に匹敵する。名将を選べといえば、半分以上の現代人は武田信玄を五指のうちには入れるのではないだろうか。いったい前田利常はどういう理由で武田信玄だけを酷評するのか。そして、利常評に、我が意を得たと快哉を叫ぶ大槻磐渓の真意は?。

◆大槻盤渓が『近古史談』を編纂したのは幕末の頃。戊辰戦争勃発に際し、仙台藩の藩校で教鞭をとっていた大槻は奥羽越列藩同盟による主戦論者となる。この大槻ならば、義に生きる上杉謙信像は好まれるように思う。それに反して、信玄は彼の中では評価が下がるのではないだろうか。

◆そして、大槻が賛意を示した利常の信玄評については、自信はないのだが、その理由を筆者は次のように解釈する。すなわち、利常は武田信玄を前に評した三者、秀吉・信長・謙信よりも上と考えているということだ。どういうことかと言うと、利常の「心が小さくて浅慮で、見識は卑しくて料簡が狭い。取り立てて言うべきほどのこともない」という信玄評は、そのまま利常自身にもあてはめることができるからである。勿論、それは利常が意図して演じて見せている偽りの自分である。

◆秀吉・信長・謙信はいずれも自己肥大型の英雄である。それにひきかえ、己を律した冷徹な政治家としての信玄を、利常は理想像としていたのではないだろうか。しかし、それを大槻盤渓も理解していたかどうかまではわからない。




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