134「六道の辻で待っている」



平塚為広(?―1600)

孫九郎、従五位下、因幡守。豊臣秀吉の家臣として小牧長久手の合戦、小田原陣、文禄の役などに従軍。肥前名護屋城留守居では本丸広間番衆に名を連ねる。文禄四年(一五九五)、五千石を領する(諸説あり)。慶長五年(一六〇〇)、美濃垂井にて一万二千石を領し、大名に列す。石田三成の挙兵を諌めるも果たせず、これと味方して西軍に参加。大谷吉継らとともに北陸へ出兵した。同年九月、関ヶ原の合戦で戦死。

◆男の友情に死す、というテーマにおいて、関ヶ原合戦の諸将は多くの事例を提供してくれている。主君と家臣という枠を超えて信頼の絆で結ばれた石田三成と島左近。癩病という障壁を超えて不滅の友情を築き上げた石田三成と大谷吉継。

◆そしてもうひとり。三成の盟友大谷吉継が不治の病ゆえに軍の指揮をゆだねた平塚因幡守為広。醍醐の花見作事奉行や秀吉側室の付き添いなど地味な仕事を黙々と担当し、慶長五年(一六〇〇)のこの年、大名になったばかりの男だった。

◆なぜ大谷が美濃垂井城主であったという平塚に軍事指揮を委ねたのかはわからない。あるいは他の与力の諸将たちをすでに信用していなかったとも考えられるが、平塚為広が豊臣家の馬廻り出身であったことが、大谷吉継・石田三成双方の信頼感を得ていたのかもしれない。名護屋在陣衆の馬廻りでなぜか平塚だけが大谷吉継与力として北陸へ転戦しているのだ。その手勢は豊臣家直轄の兵であったろう。ひょっとして、関ヶ原直前に大名になった平塚は、大谷か石田の抜擢であったことも考えられる。実は平塚為広の弟越中とその娘(姪との説もあり)は怪力の持ち主と伝えられている。為広もそうだった可能性が強い。そこを買われたのであろうか?

◆なにしろ福島正則、黒田長政、本多忠勝、井伊直政などマッスル武将たちがひしめいているのだ。一方、三成の周囲は坊主(惠瓊)や病人(吉継)ばかり。こっちにもマッチョな味方が欲しいと三成が思ったとしても無理はない。だが、ここで大谷吉継の横槍が入った、としたら?

大谷「佐吉。腕力だけの男ではだめだぞ」
石田「智恵か?機転か?」
大谷「わしのかわりに軍勢の進退を任せるのだ、歌のひとつも詠める男にして欲しい」
石田「マッチョで歌詠み・・・・・・いるのか、そんな男が!?」

◆さて、東西十五万余の大軍が集結した関ヶ原盆地。戦況は一進一退だった。毛利・吉川・小早川らの不戦にもかかわらず、地の利に拠った西軍は東軍の猛攻をよくしのいでいた。このうち、毛利と吉川は東軍の向こう側に位置しているため、万一の場合でも直接的な影響は少ない。問題は頭上に布陣している小早川秀秋軍一万五千の帰趨だった。

◆正午過ぎ、ついに業を煮やした徳川方の一斉射撃に驚いた小早川勢は、眼下の西軍めがけて進撃を開始した。吃驚したのはすぐ横にいた脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊。大波をかぶる前にサッと向きをかえて西軍陣地へ襲いかかった。互角に戦っていた西軍も腹背に新手の攻撃を受けてはたまらない。大谷・平塚勢はこれまで共に転戦してきた味方に押し包まれることになった。

◆もはやこれまで、と覚悟した平塚為広は、自ら討ち取った樫井多兵衛という者の首級に和歌を副えて大谷吉継の陣へ送った。為広はこう詠んだ。

「名の為に棄つる命は惜しからじ終にはとまらぬ浮世と思へば」

意味は、この名を世に留めることができれば、命も惜しくはない。もともと人は永遠には生きられないのだから、といったようなもの。

◆戦場で連歌や和歌の応酬をする場面は軍記などで伝えられている。前九年の役における安倍貞任と源義家(「衣のたてはほころびにけり」「としをへしいとの乱れのくるしさに」)、戦国時代では山中主膳と難波田善銀(「あしからじよかれとてこそ戦はめ何か難波の浦崩れゆく」「君をおきてあだし心を我持たば末の松山波もこえなん」)が代表選手といえるだろう。首級と和歌を受け取った大谷吉継は、平塚為広の文武に通じた心情に感激し、すぐさま返歌をしたため、甥の祐玄に持たせてやった。

「契りあれば六つの巷にしばし待ておくれ先立つ事はありとも」

◆六つの巷とは、六道の辻のことである。大谷吉継は、しばらくそこで待っていろ。出会うのにただ少しばかり先か後かの違いがあるだけじゃ、と返した。これが前線で奮闘する平塚為広のもとに届いたかどうか。

◆平塚為広は、小早川・脇坂・朽木・小川・赤座らの造反軍を相手に奮戦し、ついに力尽きて田の畝にすわりこんだ。そこへ現れた小川祐忠の家臣小川甚助という者が名乗りをあげた。為広は気力をふりしぼって立ちあがり、しばし戦ったのち、やおら十文字鎗を投げ捨て、

平塚為広「手柄とせよ・・・・・・」

その場で首を討たれた。一子庄兵衛も討死したという。

◆大谷刑部少輔吉継と平塚因幡守為広。ひょっとして、戦国史を通じて最後の「デュエット」だったかもしれない。

石田「紀ノ助ェ〜、わしは誰とデュエットすればいいのじゃああああ(涙)」



*補足調査
平塚為広が樫井多兵衛を討ち取ったとありますが、そうなんですか? てっきり逆だと思っていましたが。小川系図には「小川土佐守内小川甚助の隊下樫井太兵衛は平塚因幡守為広を討つ」とあり、また『南路志』を見ると樫井太兵衛(のち内蔵丞)正信が山内氏に仕官したことが書かれています。『関ヶ原合戦史料集』は「平塚氏系図」をひいて平塚為広の最期を紹介していますが、「平塚氏系図」も樫井太兵衛に討ち取られたとしています。また『南紀徳川史』に平塚久賀為景(為広弟)が載っていますが、そこにも為広は樫井太兵衛に討ち取られたとあります。為広が樫井太兵衛に討ち取られたことは平塚氏も認める事実ということでしょうか(X-file特別調査官:ぴえーる)


今回、迷ったのですが、参照した文献のままストーリーを組みたてた次第です。
平塚因幡守為廣ハ秀秋カ兵ヲオイナヒケ、其後自長刀を以テ小川カ兵樫井多兵衛ヲ討取テ其首ヲ大谷ニヲクリ、其後自殺ス、小川カ兵小川甚助コレヲ討取也、(『武家事記』)
ぴえーる特別調査官のお話によりますと、樫井氏自身が生きて山内氏に仕えているということですから、樫井太兵衛(多兵衛)によって平塚為広は討たれたと理解して差し支えなさそうですね。(X-file調査官:三楽堂)
XFILE・MENU