131「チェンジリング・オブ・ズイガンジ」



雲居(1582―1659)

臨済宗の禅僧。希膺、把不住軒、鉄蔵主。土佐の出身で、京都大徳寺賢国良、ついで妙心寺蟠桃院一宙東黙のもとで修行した。慶長十一年(一六〇六)、諸国を行脚。慶長十九年、豊臣方の塙団右衛門と親交があったため、招かれて大坂城に入る。戦後、捕らえられたが許されて、妙心寺に帰る。後水尾上皇の帰依を受け、宮中にも招かれた。伊達政宗が蟠桃院の大檀那となったことが縁で、後にその子忠宗に仙台へ招かれ、松島瑞巌寺中興開山となる。慈光不昧禅師、あるいは大悲円満国師と諡される。塙団右衛門の子という説もある。

◆「前は海、後ろは瑞巌寺ほどの〜」と歌にもうたわれる名刹瑞巌寺。歌詞は知らなくても、ホテルのCMでこの替え歌がお茶の間に流されていたため、メロディぐらいはご存知であろう。筆者は小学校の時に音楽の時間に唄わされた。われわれは先生がやめろと言っても「エンヤトットエンヤトット」を欠かさず、瑞巌寺の部分をホテル名に変えて唄うのをやめようとはしなかった。昨今の学級崩壊に比べれば、他愛のないものである。先頃、この瑞巌寺の開山と中興開山の二体の木像の像主が入れ替わっていたというニュースが報じられた。

◆つまり、昔からAさんと云われていた像が実はBさんで、Bさんといわれていた像が実はAさんだった、ということだ。像が入れ替わっていたのがなぜ判明したかというと、解体修理の際、Aさんの像の内部からBさんの名札が、反対にBさんの像の胴体内部からAさんの名前を記した納入袋が見つかったためだ。

◆Aさんとは瑞巌寺の開山法身禅師。Bさんとは九十九世中興開山雲居禅師である。後者が今回の主人公である。

◆住職の話によれば、すでに二十数年前から像主について疑問を抱いていたという。雲居禅師は色黒の人で「黒面翁」と渾名されていた。しかし、瑞巌寺の雲居禅師木像は色白であった。もう一体の法身禅師といわれる木像のほうが色黒で精悍な顔つきをしていた。「実はこの二体の木像は逆なのではないか?」という疑問が浮かんだ。

◆この木像は万治二年(一六五九)に制作された。この時、雲居禅師はまだ存命しており、間違えることは考えにくい。何度か修理しているうちに間違えたのか、あるいは明治の廃仏毀釈の混乱がこのような誤りを生じさせたのか。

◆さて、この雲居禅師は大坂の陣では豊臣方として大坂城に籠城したほどの気骨の士であった。妙心寺時代には塙団右衛門直之と親交を結んだともいわれている。

◆系図によれば、伊達政宗の側室に塙団衛門氏がいる。塙団右衛門といえば、大坂方の部将として名を馳せた勇士である。政宗とは敵同士であった。この敵将の縁者を側室に迎える経緯というものがいまひとつ分明でないのだが、雲居和尚が介在していたと考えれば納得もいく。

◆雲居禅師は大坂の役で豊臣方として戦い、朋輩であった塙団右衛門の遺灰を抱いて仙台へ下ったとも伝えられている。その際、野盗に取り囲まれたこともあったが、金を出しても許してくれない相手にブチ切れて、

雲居「金品を奪った上に、衣類まで獲るとは。わしに素っ裸で旅をしろというのか。ならば、命もついでに取るがいい」

◆禅師の啖呵に恐れ入ったのは野盗一味。その場で全員弟子入りしてしまった。盗っ人を弟子に引き連れて堂々の瑞巌寺入りである。

◆仙台に落ちついた後も彼の逸話が残っている。ある若者が暗闇で待ち構えていて、雲居の坊主頭をつかんで脅かした。雲居はものも言わずにじっとしていた。数日後のこと。若者はきっと恐怖のあまり雲居が声も出なかったのだろう、とニヤニヤ笑いながら尋ねた。

若者「怪物に出会いませんでしたか?」
雲居「いや出会わなかった。ただ、暗闇でわしの頭をつかんだ者がおったが、掌にぬくみがあったので、大方、若いものが悪戯しているのだろうと思ったよ」

そう言って、若者をまったく相手にしなかったという。若者は禅師を脅かすという一挙に興奮し、気持が昂ぶっていたのであろうか。掌の体温によって、雲居は相手の精神状態をも見通すことが可能だったのである。

◆現在、瑞巌寺本堂に安置されている像は、色白のほうが開山・法身禅師。色黒のほうが中興開山・雲居禅師と改められている。西洋では「取り替え子」すなわちチェンジリングの伝承がある。妖精がかわいい人間の赤子を攫い、みにくい妖精と取り替えてしまうというものだ。してみると、色黒の雲居禅師は妖精の子であったのだろうか。




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