130「わが画業は余技にあらず」



郷目貞繁(1497?―1577?)

右京進。寒河江大江氏の家臣。出羽国寒河江荘出身。永正年間に伊達稙宗が出羽高楡城を攻めた際、捕虜として連れ去られる。五年後、帰国。絵画に秀で、修行のため上洛したとも伝えられる。国重要文化財である「神馬図」(天童市若松寺所蔵)をはじめ二十数点の作品が遺されている。

◆われわれは可視的な過去をたどることによって、史上にあらわれた人物の業績や事件をもとに歴史を組みたてている。だが、その時代を生きた人々は、現在のわれわれの多くが(おそらくは)そうであるように、「決して望んだことのない人生」を生きている。戦国時代にも当然、武将などよりもやりたいことがある―そう思った人物が何人もあったことだろう。

◆戦国Xファイル宛にメールが舞い込んだ。

「戦国時代、僧侶の画家は割りに多いのですが、現役の武人で作品を残した人はあまりおりません。京都まで画の修行に出かけた郷目貞繁をぜひ取り上げて」

◆やがてこちらからの要望に対し、きちんとしたリサーチ結果が送られてきた。今回のファイルはリサーチをもとに再構成したものである。

◆永正十七年(一五二〇)、最上家の家督相続に介入せんとする伊達家の発言力が増したことに反発した出羽の国人衆が、伊達家と合戦して敗れた。彼らの居城である上山城・天童城・高擶城などが伊達家の手に落ちた。それらの城主をはじめ反伊達派の面々七名が捕虜として米沢へ連れ去られた。

◆この七人の捕虜の中に、郷目右京進貞繁という男がいた。寒河江の名家大江氏の家臣だった。郷目ら虜囚が故郷に帰るのは五年後のことである。帰国後、郷目貞繁は絵筆におのれの息吹を封じ込めた。絵画への希求はやがて京の都への憧憬となったものか。

◆彼の代表作のひとつ、寒河江および天童に伝わる三幅の「羅漢図」。この絵の構図のもととなった原画に比定されるものは、京都府・福知山市の天寧寺にある十六羅漢図であろうといわれている。京都府と寒河江、郷目を結びつける接点はそれだけではない。

◆貞繁が描いた「芦雁図」の裏紙に、一枚の文書が使われている。それには『山城国下京四條町山陰中将宗高末孫藤原朝臣小原与太郎安常送進  弘治三年十月十三日  実相坊』とある。小原家は当時京で盛んであった手猿楽の家で、寒河江に移住して慈恩寺で猿楽を行った。同寺には、当時の古能面がいくつか伝わっている。ここに郷目貞繁―寒河江―京都を結ぶラインがおぼろげながら浮かび上がる。

◆以前、JRのCMで石川丈山が取り上げられたことがあった。

「ある日突然、戦うのが嫌になりました。花や虫とともに暮らすことにしました」

そう言って、戦国時代の武将石川丈山はこの庭をつくりました・・・・・・非常に印象的なCMで、JRの京都に関する一連のシリーズの中で最も好きな一本で、筆者をして「そうだ、京都へ行こう」と腰を立たしめた。

◆石川丈山は花鳥風月に遊びながら隠者の暮らしを楽しんだ。郷目貞繁も花や虫を愛したらしい。その作品にも小さな生き物たちがよく描き込まれている。馬も好きで、「神馬図」を描くために『馬経大全字解』を写本、上部に馬の絵を、下部に馬の病気の治療法を解説するなど、自分が描こうとする対象物を慈しむように接した。

◆「弱肉強食の過酷な時代、絵画を楽しみ、たしなむ余裕がないのは言うまでも無いことです。まして、茶道や連歌、能楽などと異なり、絵画は社交上の有用な手段とは言えません。それ故に、現役の武人が絵を描いたことに対しては驚きと一種の感動があります」(松川湖通里・談)

◆むろん絵画の世界にも政治とのつながりは濃厚だったのだが、郷目貞繁は純粋に絵画の道にのめりこんでいった。権力者同士の贈答品などではなく、自分の好きなもの愛するもののために描くという姿勢である。彼とても寒河江大江氏に仕える一介の部将。戦場に出ることも一再ならずあったはずだが、貞繁の中では武事こそが余技だったかもしれない。

◆天童市鈴立山若松寺(最上札所第一番)には郷目貞繁が永禄六年(一五六三)に描いたとされる「板絵着色神馬図」(国重要文化財)が奉納されている。これは貞繁が亡き妻の菩提を弔うために描かれた渾身の大作である。その隅っこに次のような墨書銘が残されている。

観音御宝前 奉納馬形
旦那郷目右京進妻女菩提故也
寒河江内郷目右京進貞繁畫
于時永禄六年癸亥九月十八日



※今回は、松川湖通里様(文中敬称略させていただきました)からご教示いただいた話をもとに編集いたしました。文責は筆者にあります。


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