129「空を狙う鉄砲狭間」



垣見家純(?―1600)

弥五郎、和泉守、一直。筧氏とも。浅井氏旧臣・垣見氏の一族か。豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番をつとめる。小田原の役、奥羽仕置に従軍した。大友義統改易後、北九州の押さえである豊後七人衆のひとりとして、富来城主二万石を領し、豊臣家蔵入地の代官を兼任した。文禄の役で上使、慶長の役で目付をつとめた。が、戦況報告の内容をめぐって加藤清正との間で争論となり、対立。翌慶長五年、関ヶ原の合戦で西軍に参加。大垣城を守備していたが、東軍に応じた秋月氏らによって殺害された。

◆逸話というものは、一面残酷といおうか、Aという人物の才を数百年後まで賞賛せしめる根拠ともなってしまうのに対し、Aの引き立て役たるBなる人物を同じ星霜の間、無能者呼ばわりすることにもなるのである。引き立て役は損な役回りとして人々の脳裏に記憶されることになる。

◆ここに紹介するのはわりあい有名なエピソードである。文禄の役のことであろうか。朝鮮半島へ進出した日本軍のうち、泗川城の普請を担当している垣見和泉守家純が工程の監督をしている最中、言い放った。

家純「ああ、それではダメだ。鉄砲狭間はもっと上で切るようにいたせ」

鉄砲狭間とは、射手が鉄砲を突き出す小窓(形状は○状、△状などがあった)のことである。銃撃戦になった時、当然、狭間の出来不出来は戦況を左右する。目付役の垣見家純は熱心に鉄砲狭間の構築に指示を下していた。

◆すると、嫡男信親を九州戸次川の戦いで失ってからというもの、万事につけ投げやり調子の長宗我部元親がやってきて口を出した。

元親「鉄砲狭間は人の胸のたけで切っては高すぎる。腰のあたりで切るのがよかろう」
家純「長宗我部どの。そんなに低く切っては、敵兵が覗き込みまするぞ」
元親「城内を覗き込めるほど敵が接近したなれば、もはやこの城が陥る時じゃ。だいたい、鉄砲狭間をそんなに高く切って、お手前は敵の頭の上を撃とうというのか?」
家純「・・・・・・」

◆この場合は家純の完敗であろう。狭間の高さは、立ち撃ちのものは肩の高さ、膝撃ちのものは平坐した時の肩の高さとされ、たいてい城壁は城外よりも高いので、平坐した姿勢で狙い撃つことが多くなる。元親の言う「腰のあたり」にほぼ合致する。実戦経験豊かな元親の言い分もっともというべきで、家純は机上で理論を組みたてるだけのつまらぬ男になってしまっている。垣見家純という小大名はただこのエピソードのみによって名を残している、といっても言い過ぎではないであろう。

◆ばかなやつだ、人物としては三流だ、垣見というやつは。多くの人間がそう思ってきたのではないだろうか。だから、このエピソードは四国の雄・長宗我部元親の英明ぶりを示す逸話として語りつがれてきたのである。垣見家純という「凡将」に、元親を照射する鏡という役割を与えて。

◆だが、人心収攬に長けた秀吉が、凡庸な男に海の向こうまでの使者を命じたり、大切な蔵入地の管理などを任せたりするだろうか。ここに、石田三成与党であった人々への、不当な扱いが見え隠れしているような気がしてならない。

◆慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の混乱に乗じて、九州でも戦雲が湧き起こった。黒田如水が北九州の諸城を次々に攻落していったのである。垣見家純の居城富来城も標的にされた。家純は関ヶ原へ出陣していたため、留守居は垣見理右衛門が担当していた。如水は兵力の多さにものをいわせ、理右衛門に開城して降伏するよう促がした。が、理右衛門はきっぱりとこれを断った。

理右衛門「この城は殿より預かったもの。殿のおゆるしがないうちは、戦わずして開け渡すことはできません」

◆結局、主君家純が美濃大垣で戦死したという報に接した理右衛門は、ようやく城を明け渡した。寄せ手の黒田如水の仕官の誘いも断り、その身は帰農して亡君の菩提を弔ったと伝えられる。

◆勇将の下に弱卒なし、という。また、上を学ぶ下なれば、という言葉もある。鉄砲狭間の整備は不得手であったかもしれないが、豊臣家の目付ともなる男だ。黒田如水の圧力にも屈しなかった理右衛門をして、主人と仰がしめた垣見家純とは、そんなに暗愚な人物であったのであろうか?

◆大垣城で垣見家純は騙し討ち同様に相果てた。大垣城は彼自身が普請した城であった。その鉄砲狭間の高さはやはり人の胸のたけで切ってあったのだろうか。




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