127「新上東門院のサロン」



勧修寺晴子(1553―1620)

勧修寺晴右の娘。母元子は粟屋氏の出身で武家の血をひいている。武家伝奏勧修寺晴豊は実兄。永禄十年(一五六七)、正親町天皇第一皇子である誠仁親王に入侍し、阿茶局と称す。後陽成天皇、八条宮智仁親王ら十三人の子女を生む。天正十四年(一五八六)、准三宮。続いて慶長五年(一六〇〇)、院号宣下され、新上東門院となる。徳川幕府による朝廷締めつけが強まる状況で、朝廷内において発言力を有した。墓所は京都泉湧寺月輪陵。

◆安部龍太郎の大作『信長燃ゆ』のヒロインとして、勧修寺晴子の名は歴史小説の読者たちの間に深く印象づけられたのではないだろうか。この小説で、晴子は誠仁親王に仕える身でありながら、事もあろうに新しい時代を切り開こうとする織田信長に魅せられ、これと密通してしまう。しかも、それを公武和合の手段として用いて、朝廷を凌駕せんとする信長という存在に拮抗する強さを身にまとっていくのだ。

◆小説では、本能寺の変を知らせるべく、晴子が信長のもとへかけつけるところで終っているが、ここに至るまでの過程に『伊勢物語』のエピソードをからめているところが非常に美しいシーンでもある。現実の晴子も古典の造詣があり、宮中を中心とした文芸サロンを形成していた、と思われる。思われるというのは、やはりこの時代、女性の活動は表に出てこないため、後世の者がそれを探り出して実証を示すのが困難であるからだ。

◆だが、状況証拠はある。まずは晴子の院号だ。新上東門院。

◆後醍醐天皇がいらっしゃるからには、当然、その前に醍醐天皇が存在している。新上東門院というからには、それ以前に上東門院と呼ばれた女性がいたはずである。

◆上東門院とは、平安時代の一条天皇の中宮彰子のことで、時の権力者藤原道長の娘である。これでピンとくる人もいるだろう。かの紫式部が仕えた女性である。彰子が上東門院の院号を受けたのは万寿三年(一〇二六)のことだから、晴子の時代から六百年近く昔のことになる。あらためて言うまでもなく、中宮に仕えた体験を、紫式部は日記にしたため、また長編小説『源氏物語』を著した。中宮彰子のサロンで『源氏物語』は宮廷人たちに耽読された。

◆晴子が新上東門院と号したのは、当然、中宮彰子の存在が念頭にあった、と考えられる。戦国大名たちの闘争のはざまで、彼らに利用され翻弄される朝廷の有様を身をもって体験したであろう晴子は、諸芸の花開いた平安時代に憧憬を抱いていたとしてもおかしくはない。そうなると、次に問題となってくるのは、晴子にとっての「紫式部」の存在である。

◆この頃、上流階級の女性たちの間で「お通流」なる書が流行っていた。主なところでは、淀殿、細川ガラシャらがお通流をならったといわれている。これをひろめたのは小野お通という才女である。彼女は牛若丸と浄瑠璃姫の愛の物語『十二段草子』を書き、浄瑠璃の祖と言われてきたが、江戸時代に柳亭種彦によって否定された。だが、『浄瑠璃大系図』は次のように記している。

世ににほふしたもえや見ん紫の
根に通ひける小野の若草

紫式部を精神的なルーツとするお通を称えたものであろう。

◆かくして、上東門院―紫式部―『源氏物語』に対比する、新上東門院―小野お通―『十二段草子』という構図が完成したのである。

◆時代は戦国から太平の世に移ろうとしていた。衰微していた朝権を復活するべく、新上東門院は、平安の世の宮廷サロン復活を夢見たのかもしれない。新上東門院の没後、後水尾天皇を中心に寛永文化が花開こうとしていた。だが、朝廷がその文化の中心に位置していたのはわずかな間に過ぎなかった。もはや紫式部や清少納言のような才人は朝廷から出現することはなかった。時代の担い手は庶民へバトンタッチされた。

◆ついでながら、上東門というのは、東土御門ともいわれる平安宮十二門のひとつである。屋根がなかったので、「雨宿りができない」と紫式部のライバル清少納言が記している。




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