123「ぷろじぇくとX・執念の伏見舟入普請」



平林正恒(1562―1622)

蔵人佐。信濃の国人で正家の男。八歳の時、父が討死。天正四年(一五七六)、武田勝頼の命で牧之島城を守る。武田氏滅亡後、上杉景勝に仕えた。直江兼続に見出され、文禄三年(一五九四)には二百七十二石を給され伏見舟入普請を担当。慶長三年(一五九八)の上杉氏会津転封にあたって白河小峰城を預けられ、二千石を領した。関ヶ原戦後、初代米沢奉行となる。元和八年(一六二二)二月十八日病没。東源寺に葬られる。

◆文禄三年(一五九四)、天下を掌握する豊臣秀吉は、朝鮮に出兵していない諸大名に対し、未曾有の大工事を命じた。伏見城の築城。中でも難工事と目された舟入場の普請を命じられたのは名門上杉家。工事の指揮をとるのは執政直江兼続。秀吉から「天下の政治を任せられる男」と評された逸材だった。上杉侍の意地をかけて立ち上がったのは兼続の信任あつい信濃出身の男たち。これは二年余におよぶ難工事に挑んだ男たちの執念のドラマである。

◆豊臣秀吉が城地として選んだのは、山城国木幡山、伏見の地だった。動員をかけられた役夫はその数実に二十五万。越後の上杉家にも正月早々、秀吉の朱印状が到着した。それにはこう書かれていた、「四千人を召し連れ、上洛すべし」

◆さっそく奉行が任命された。嶋倉孫左衛門、平林正恒、河田平左衛門、舟橋名兵衛、山田修理。近江や信濃出身の、いわば外人部隊。譜代家臣たちの冷ややかな視線にさらされる身だった。彼らは四千の人夫を率いて二月十五日に春日山城を進発した。その頃、上杉の家政を預る直江兼続は豊臣家奉行からとんでもない情報を聞かされていた。

◆伏見を検分した秀吉は言った、「城域へ淀川の流れを引き込まば、舟を繋ぐのに至便である」秀吉はしばしば土木事業を戦術に取り込んだ。現場を見ただけで工夫が浮かんだ。舟入場を築くには、川の流れを変えなければならない。その担当が上杉家に割り当てられた。「この普請をし遂げられるか?」

それは、秀吉からの挑戦状だった。

◆失敗すれば、上杉家は天下に恥をさらすことになる。直江は言った、

直江「上杉の意地と誇りを天下に示せる絶好の機会だ」

その言葉をじっと聞いていた普請方奉行の平林正恒。奮い立った。

◆伏見舟入は乾燥した地・新川を開き、淀川の流れを引き込み、低地から高地へ導くことによって、その水勢を殺そうという計画だった。直江指揮下には多くの信濃国人衆がいた。海洋民族の末裔といわれ、水利事業に巧みといわれていた。河川の流れを龍蛇にたとえ、これを御する蛇神の末裔であるという伝説もあった。「先祖たちの名にかけても成功させてみせる」と平林正恒は思った。

◆だが、プロジェクトは早くも壁にぶちあたっていた。

◆直江の計算では、川を掘り替え、水を切った上で泥を蓄え、その泥が十分にたまった時を見計らって撞き固める。これを順に繰り返せば、自然に水は涸れていくはずだった。だが、掘り替えても掘り替えても水は涌き出た。上杉家中に焦燥の色が濃くひろがっていった。

◆直江が言った、

直江「大坂に山岡某という天下無双の算術者がおる。彼なればこの難問を解決できるかもしれない」

◆しかし、噂に聞く山岡某は、世に出ることを求めない変人。こちらから出かけていかない限り、会ってはもらえない。その時、平林正恒が言った、

平林「自分が山岡某を口説いてみます」

◆平林正恒は、今回の普請方奉行を仰せつかり、はりきっていた。武田家臣として主家滅亡後、上杉家に拾われた身だった。もともと上杉家中でも目立たない存在だった。禄高も少なかった。が、直江兼続は平林の才を見ぬいていた。試みに使ってみると、果たして期待どおりの逸材であることがわかった。

◆平林正恒の捨て身の説得で、山岡某は上杉家に協力を申し出た。水勢の見積もり、土地の測量。工事はみるみる進捗を見せていった。

◆伏見城が落成したのは、文禄四年冬。だが、その翌年、京畿は大地震に見舞われた。伏見城下は灰燼に帰した。慶長二年(一五九七)にはふたたび舟入普請が上杉家に命じられた。

直江「ここで挫ければ、上杉の名声は地に墜ちる。絶対復旧させるんだ」

直江兼続の指揮の下、平林正恒以下の奉行は普請を全うした。上杉の面目は保たれた。

◆慶長五年、徳川家康と石田三成らの抗争によって、伏見城は焼け落ちた。石田方に与した上杉家は会津一二〇万余石を没収され、米沢へ移された。しかし、江戸幕府を開いた徳川家も上杉の技術力を評価した。間もなく常陸国の舟入普請を任された。米沢に移った直江兼続がまず取り組んだのは治水工事である。平林正恒は初代米沢奉行として城下町米沢建設に辣腕をふるった。あの、伏見舟入場の水を御する技術を活かし、築かれた堤防は、今も米沢を水害の危機から守っている。




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