121「愚者のレッテル」



織田信雄(1558―1630)

茶筅、三介、左近衛権中将、大納言、正二位内大臣。法号常真。織田信長の次男。母は生駒氏。信長の伊勢侵攻後、北畠家に入る。本能寺の変後、伊勢・伊賀・尾張百万石を領有。弟信孝と対立し、羽柴秀吉と組んでこれを討つ。後、秀吉とも対立し、徳川家康と連合したが講和。天正十八年(一五九〇)、秀吉の転封命令を拒否して失脚。その後許され、秀吉の相伴衆となった。大坂の陣後、家康から大和で五万石を与えられた。子孫は天童藩として存続。

◆かつて、旧ソ連時代に赤の広場で声高に叫んだ男がいた。

「フルシチョフはバカだ。フルシチョフはバカだ」

フルシチョフは当時の共産党書記長。男はもちろん捕まってしまった。男の罪状は「国家機密をばらした」。

◆不肖者が揃っている織田信長の兄弟・息子の中でも、とりわけ「愚鈍」とされているのが次男の北畠中将・織田信雄(通称三介)である。冒頭のフルシチョフの話はジョークだが、織田信雄の場合はその愚物ぶりが公然の秘密どころか、大っぴらに喧伝されていた節がある。

◆はっきりバカ呼ばわりしていたのは、宣教師のルイス・フロイスだ。彼の著書『日本史』の中で「信長の子、御本所(信雄のこと)はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく」安土の城を焼いてしまった、と記している。安土城炎上について、信雄放火説の根拠のひとつとされる記述である。「何の理由もなく」とフロイスがわざわざ記しているのは、この時点で父の仇・明智光秀が滅亡しており、その報に接した安土駐留の将・明智秀満が城に火をかけることもせずに琵琶湖対岸の坂本城へ退去しているからだ。

◆その後、羽柴秀吉の台頭によって表向きは主筋と奉られていた時期もあったが、小牧・長久手の合戦で徳川家康とつるんで気を吐いたかと思ったら、同盟者には無断の腰砕け単独講和。さらには小田原攻めの後、東海への移封を拒絶したことから、秀吉によって下野烏山へ流されてしまった。このあたりも時代の趨勢をよめない信雄の愚物ぶりを示しているように思う。

◆だが、信雄がその無能ぶりを天下にさらけ出したのは、天正七年(一五七九)九月の伊賀攻めの失敗であった。彼は父信長に断りもなく伊賀へ兵を入れ、ゲリラ戦術に苦しめられた挙句、副将柘植三郎左衛門以下、多くの兵を失ってしまう。その敗報を聞いた信長の折檻状がある。

信長「上方へ出兵すれば、伊勢の武士・民百姓の負担になると思い、遠征を免れるために隣国の伊賀へ兵を出したのか? いやもっと有態に言えば、おまえの思慮が足りぬせいで軍役を免れようとする国侍どもの口車に乗せられたか。三郎左衛門まで討死させおって。おまえの覚悟次第では親子の縁を切るからそう思え」

◆恐ろしい。父親からこんな書状を突きつけられたら、恐怖のあまり卒倒してしまうのではないだろうか。信雄のどこか卑屈に感じる生き方は、この時の父の折檻状が原因なのではないだろうか。しかもこの折檻状は『信長公記』にまで載っている。ひそかに回覧でもされていたのだろうか。信雄の愚物ぶりは「国家機密」にも価しなかったのか。

◆二年後、信雄は正式に伊賀出兵の許可をとりつけ、伊賀の人口の半分にも達するかという数万の大軍を投入して無事(?)に平定を果たしている。しかし、信長は彼を信用してはいなかったらしい。信長は長男の信忠、甥の津田信澄を連れて伊賀へ実地検分に訪れた。『信長公記』は「(信長一行のための)御殿御座所我劣らじと綺羅をみがき、御普請、御膳進上の用意、おびただしき次第なり」と戦勝してもびくついている信雄の様子を活写している。信長から国中仕置について質問され、兄弟や従兄弟の前でシドロモドロに対応する信雄の姿が目に浮かぶようである。

◆だが、こんな信雄にも得手とするものがあった。能である。

◆文禄二年(一五九二)、禁中能が三日間にわたって催された。武将による禁中能など空前のことであった。入道して常真となっていた信雄は、初日に「山姥」、三日目に「紅葉狩」でシテを演じている。鑑賞した近衛信尹が「常真、御能比類なし。扇あつかい殊勝殊勝」と激賞している。また、聚楽第で催された能でも「龍田」を舞い、「能は名人也。中々見事なる事言語道断也」と『武辺雑談』が伝えている。幸若舞を好んだ信長の息子の面目躍如といったところか。

◆愚者は案外長らえるものである。信雄が烏山配流から許されて秀吉の相伴衆になったあたりから、「憑き物」もとれたらしい。だが、関ヶ原、大坂の陣で抜け目なく徳川家康と連絡をとり、土壇場で豊臣家を見放して五万石を頂戴している。その俗物根性は抜け切っていなかったものと思える。

◆ところで、信雄の幼名は茶筅である。信長らしい命名ともいえるが、ちょっと想像をはたらかせてみると、ひょっとしたら、信雄は赤児時代、髪が逆立っていたのかもしれない。それを見た信長が茶筅の形状に似ている、ということで命名したのではないだろうか。




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