120「木曽義昌、信長と対面す」



木曽義昌(1540―1595)

宗太郎、左馬頭、伊予守。木曽義康の嫡男。武田信玄の信濃侵攻にともない、これに服従。義昌室として信玄の女(真竜院)が配され、武田氏一門の処遇を受ける。天正十年(一五八二)、織田信長の圧力に屈し、武田氏を離反。織田勢による信濃・甲斐制圧の饗導をつとめて、信州のうち筑摩・安曇郡を宛行われる。織田氏が滅ぶと徳川家康に従う。天正十八年、家康の関東入部により、下総阿知戸一万石に移封され、同所で死去。法名東禅寺殿玉山徹公居士。

◆かつて相撲の表彰式の時、今はなきパンナム航空のトロフィー授与の瞬間が、ファンの人気を集めていた。外人が「ヒョー、ショー、ジョー!」と賞状を読み上げると盛大な拍手。「ユーショー、○○ドノ。アンタさんは」と優勝力士に呼びかけるところで爆笑の渦。その次に巨大なトロフィーを持ち上げて力士に渡すのだが、これを持ち上げた途端、土俵上にひっくり返ってしまったことがあった。

◆唐突だが、この話を冒頭に掲げたのは、以下に紹介するエピソードを書くにあたって、ふと思い浮かんだためである。本題とはあまり関係がない。

◆天正十年(一五八二)、武田信玄の婿でありながら、織田信長に通じて武田家を裏切った木曽義昌は、信長勢を先導して諸所で戦闘を展開していたが、信長が宿所に入ると「御礼」と称してその膝下に罷り出た。その旨を申し次の菅屋九右衛門が告げると、

信長「寺中は狭し。それにて礼を申させよ」

そう言って、宿所と定めた寺に入る前に、道中で木曽義昌を引見し、彼へ黄金二百枚を積み上げた台を褒美として与えた。

◆見たこともない量の黄金を前に肝をつぶす木曽義昌。ここへ来る前に未曾有の大軍勢を目の当たりにしており、短気で冷酷、尊大であるという噂の信長の前で緊張している上、このような莫大な褒美をもらって義昌の頭の中は真っ白。ひたすら信長の前でしくじらないように、とそればかりを念じていた。やがて、その台を両手で持ち上げて押し戴こうとした時、甲高い信長の声がとんだ。

信長「木曽はうつけものかな。黄金を二百枚も積んだ台があがるものか。手をかけ、頭をつけて礼をするものぞ。山家の田舎者、何も知らずと見える」

信長の左右に居並ぶ小姓たちも木曽を嘲るように笑う。

◆一枚あたりの黄金がどのくらいの量であったかわからない。ちなみに秀吉の天正大判は約一六五グラム。この時の黄金が一枚百グラムと仮定して、二百枚で二十キログラムである。上がらない重さではないと思うが、問題なのはその重さの台を頭よりも高く捧げて、信長のほうへ拝跪しなければならないということだ。かなり無理な姿勢となり、よほどの力自慢でなければ、信長の面前で黄金をばら撒いてしまう仕儀となろう。

◆その後、木曽義昌が二百枚の黄金が載った台をどうしたのか、そこまでは史料は語っていない。が、次の逸話によって、ある程度、想像することはできる。

◆信長の小姓森蘭丸が贈答の蜜柑を山盛りにした器を運ぼうとした時、信長が「そのほうには無理だ」と言った。案の定、蘭丸は転んで座敷に蜜柑をぶちまけてしまう。あとで蘭丸は朋輩に「あの時、わたしが転ばなければ、上様の目利き違いということになるから、わざと転んだ」と言った。

◆木曽義昌が信長の性格をよく理解した者であれば、「上るものか」と主張する信長の言葉に従い、台を持ち上げはしなかったであろう。また、膂力にものを言わせて信長への礼をすまし、持ち帰ってしまったならば、信長の目利き違いということになり、不興を蒙ったのではないか。

◆木曽義昌は「東国武士の意地」とばかりに台を持ち上げたのか、それとも信長の言うとおりにして「田舎者」呼ばわりを甘受したのか。果たして、どちらであったのか。黄金二百枚とする「祖父物語」との若干の差異はあるが、『信長公記』は以下のように記している。

三月廿日、木曽義政出仕申され、御馬二つ進上。申次菅屋九右衛門。当座の御奏者滝川左近。御腰物、梨地蒔、かなぐ所焼付け、地ぼり、目貫コウガイは十二神、後藤源四郎ほりなり、并に黄金百枚。新知分信州の内二郡下され、御縁迄御送りなされ、冥加の至りなり。

◆縁側まで見送ったほど信長は上機嫌であったらしい。案外、木曽義昌が黄金を積んだ台を持ち上げてひっくり返してしまい、「自分の目利きどおりではないか」と信長は喜んだのかもしれない。だが、信長は帰途に木曽路は通らなかった。田舎者、愛い奴、だが、徳川家康ほどには評価できない。そんな信長の思惑が事の顛末を語っているような気がしないでもない。




XFILE・MENU