119「戦場ランチは勇気のシルシ!」



高橋鎮種(?―1586)

弥七郎、三河守、法号紹運。吉弘鎮理の二男。大友宗麟の重臣として島津、龍造寺などと抗争。永禄十二年(一五六九)、大友氏に抗した高橋鑑種の降伏後、その家督を相続し、筑前国宝満城・岩屋城の城主となる。衰退する大友氏を支えて、戸次道雪とともに筑前支配を推進した。この間、長子宗茂を道雪の養子として両家の結びつきを強化した。天正十四年(一五八六)七月、筑前へ侵攻してきた島津勢を迎撃、岩屋城に七百余名の兵とともに籠城。寄せ手に大損害を与えるが、二十七日、ついに落城。島津方の降伏勧告を拒み自害した。

◆武将の食事に関する逸話をざっと概観したところ、気づいたことがある。

◆逸話レベルに限定すれば、戦場での食事は、武将の勇気を示す尺度といえるかもしれない。また、人間の基本的な摂理のひとつである「食事」の際の態度によって名将であるか凡将であるか評価が下されるケースが多い。古くは平将門が食事中にポロポロ飯をこぼすので、藤原秀郷(俵藤太)が「だめだ、こりゃ」と味方するのをやめたという逸話がある。現在でも女性に人気のあるタレントなどがTV出演で犬食いしているのを見て「やめて」という投書があったりする。食事するすがたの好し悪しは、その人の評価まで左右しかねないのだ。

◆猛将島津義弘は、晩年、恍惚の人となっていたが、お世話の者が「おかかり召され!」と叫ぶと、膳部のものをパクパク食いだしたという。食事の折、進撃の号令を聞くとその瞬間、パッと正気に戻ったという。

◆上杉謙信も小田原城攻めの折、銃弾飛び交う中で悠々と食事をしたという逸話もある。似たようなエピソードを思い浮かべる方もいるかもしれない。秀吉の朝鮮出兵で、渡海した立花宗茂が、朝鮮・明連合軍の前でにぎり飯を黙々と食べていたという。家老小野和泉がそれを見て、自分もにぎり飯を口にしたが、腹の底からこみあげてきたものによってたちまち吐き出してしまった。眼前でゲロされても宗茂は顔色ひとつ変えずに二個めのにぎり飯をぱくつきだした。

◆前出の立花宗茂に「戦場でもきちんと飯を食える男になれ」と教え諭したのは誰であろうか。養父戸次道雪か実父高橋紹運のどちらかだとは思うが、それをうかがわせるエピソードがないだろうか。

◆やはり、あった。

◆高橋紹運が戸次道雪とともに立花鑑載を攻めた時のこと。一戦をまじえた後、次の戦いに備えて、紹運は味方を一ヶ所にまとめた。紹運の手勢は士卒四十七名、雑兵一〇九人が残っているばかりであった。「さあ、みんな弁当にしよう」というわけで、携行して来た飯を取りだした。だが、ひろげた弁当を食べられた者はわずか八名に過ぎなかった。その八名の中に主将高橋紹運も入っていた。そのほかの者は喉に詰まらせ、飲み下すことができなかったり、たまらずに吐き戻してしまったりした。

紹運「数千の味方も、あるいは手負い、あるいは討死し、ここに集っているのは身分の高下を問うまでもなく、一騎当千のつわもの揃いである。人が死ぬことほど大なることはない。男たる者がこれから死ぬかもしれないという時に、飯ぐらい食えないでどうするか。わしをよく見ていよ」

言うが早いか、紹運はおにぎりを四つ五つを次々にぱくつき、あっという間にたいらげてしまった。この親にしてこの子あり。

◆紹運が平然と握り飯をたいらげたからには、麾下の兵士たちも「おえっぷ」などと顔を青くしてはいられない。負けるかとばかり、皆々、無理やり握り飯を口へ突っ込み、押し込むようにして嚥下した。

◆戦場にのぞむ武士たちが飯を前にした時、その対応は二つのタイプにわかれる。「敵の鎗に喉を突かれて飲み下せなかった飯粒でも出てきたら、恥ずかしい。戦場でゲロしたりするのも見苦しい」という人々。実際、平安時代に後三年の役で喉から飯粒が出て来た兵士の話が伝わっている。もう一つのタイプは、紹運や立花宗茂、上杉謙信たちのように「死ぬかもしれないというのに飯ぐらい食えなくてどうする」という連中である。前者だとしても、恥ずかしいことはない。見苦しくないようにとわざと食事を控える木村重成のような武将もいたのだから。

◆飯も喉を通らないというほど、数々のストレスに囲まれて生きているわれわれ現代人は、さて、どちらを範とすべきなのだろう?




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