116「シリーズ長宗我部衰亡史・スケープゴートの悲劇」



久武親直(?―?)

彦七、内蔵助。長宗我部元親・盛親の二代に仕える。中内・桑名とともに三家老と称される。天正十二年(一五八四)、伊予軍代となる。以後、阿波攻略にも功をあげて元親幕下の出頭人となり四万石を領したともいう。その台頭が一門衆との軋轢を生じさせた。慶長四年(一五九九)、元親から後事を託され、盛親を補佐する。慶長五年、関ヶ原合戦で敗退した後、盛親の庶兄津野親忠を殺害させたため、主家改易の一因をつくったとされる。その後、加藤家で千石をもって召抱えられた。

◆滅亡した大名家に共通するもの。それは当主に道を誤らせた奸臣の存在である。武田家の跡部大炊、長坂長釣斎はその代表格であろう。豊臣氏の場合は大野治長や淀殿であろうか。滅亡こそ免れたものの毛利家の安国寺惠瓊なども含めていいのではないか。軍記などを読んでいると彼等「奸臣」の存在のみが滅亡の要因のように書かれている。儒教礼賛の江戸時代の編纂ものであるから仕方ないかもしれない。が、書き手が遺臣たちによる場合は、まさしくかつての同僚への「恨み」の書になるわけだ。

◆長宗我部家の遺臣(正確にはその子孫)がまとめた『土佐物語』では、奸臣役は、久武内蔵助親直という男が一身に負っている。彼は登場以前から呪われた存在だった。長宗我部元親から伊予平定戦の惣軍代を命じられた久武親信は、出陣の間際、元親にこう言い残した。

親信「およそ戦場に臨む者は二度と帰らぬ覚悟こそ肝要と考え、申し上げたき儀がござる。今度の戦でそれがしが討死いたしましても、哀れと思し召してわが弟彦七を跡式になさらぬように。あの弟は御用に立つ者にあらず。行く末、御家に災いをもたらしましょう」

◆どこかで聞いたような話だな、と思った方もおられるのではないだろうか。『三国志演義』で劉備が諸葛亮に「馬稷を重用するな」と遺言したエピソードに似ているのである。

◆さて、果たして久武親信は伊予で戦死してしまう。諸葛亮同様、元親も「重用するな」と言われた人物を登用してしまう。兄に疎まれた男、彦七こと久武内蔵助親直の出発点であった。「見るな」と言えば見てしまうのが昔話のお約束である。馬稷は軍令に反したため、諸葛亮が「泣いて斬った」が、元親は久武親直を重用し続けた。久武は元親に対し、目に見えるような不利益を生ぜしめなかったためでもある。

◆天正十四年(一五八六)、豊臣秀吉の大仏殿建立にあたって、土佐からも用材を送ることになった。伐採をとりしきったのは親直である。伐採の現場を視察に訪れた吉良親実が、一顧だにしない親直の笠を弓で射たため、この時から二人は犬猿の仲となった。やがて、長宗我部家の継嗣問題で吉良親実は殺されるが、裏で画策したのは親直であったと『土佐物語』は記す。

――パンパカパーン!それでは南国土佐・流行語大賞の発表です。いやあ。久武さん、今年も人が死にましたねー。
親直「なぜ、そのようなことをわしに向かって言うのじゃ」
――いえ。いろいろ噂がありましてね。
親直「どうせロクでもない者の中傷であろう。長宗我部家にとって、わしほどの忠臣はおらんぞ。土佐一国の検地も監督したぞ。長宗我部元親百箇条の制定にも尽力したぞ」
――そうでしたね、はじめ十二ヶ条しかなかったのが、あなたがどんどんつけたしていって、しまいに百ヶ条にまで膨れ上がったとか?
親直「より完全なものを目指したがゆえだ」
――おかげで、土佐の武士は、雁字搦めですなー。
親直「ン、なんぞ申したか?」
――何も言ってません。いえ、そうですよね。みんなに愛されている久武さんでなきゃ、流行語になったりしませんよね。どうですか、今年の南国土佐・流行語大賞に選ばれたお気持ちは?
親直「な、何のことじゃ。わしゃ、知らんぞ」
――ご謙遜を。ご城下ではみんな挨拶がわりに使用しているくらいなんですから。

「悪しく油断して久武が火屑に会うな」

――これが今年の南国土佐・流行語大賞になったんですよ。火屑はやがて燃え上がって家を亡ぼす。この火屑のような久武の舌が動いて人を殺す。彼の舌は火屑なり。ご用心ご用心ってわけなんですが。イヨッ、サラマンダー久武!なんちゃって。ちょっとご自慢の舌を出してみていただけますか?
親直「ぶ、無礼な。わしを貶めるは元親さまをないがしろにするのと同じぞ。わかっておるのか?」
――こりゃ、まずい。火屑をかぶったようだ。

◆事実かどうかはわからないが、吉良親実の死後、親実一派の怨霊(七人みさき)が出没し、久武家の男子が次々に奇怪な死を遂げた。親直の嫡男は「検使が参りました」と言って突然自害を図り、五歳ほどの男子も庭で遊んでいるところを通りかかった老婆に「美しき若殿じゃ」と抱き寄せられた途端に頓死した。こうして八人あった親直の男子は末子ひとりをのぞいて全員が死んでしまった。ショックのあまり、親直の妻までもが自害して果てた。

◆生き残った末子を連れて、久武自身も主家没落とともに国外へ去った。その終焉はおろか、墓すらも明らかではない。

◆遺臣たちは奸臣の言動をあげつらい、主家滅亡の第一原因だと記す。奸臣の積悪が主人の身にふりかかってきたのだ、と責任転嫁をする。辣腕をふるう家臣の陰で主流派からはずれた者の妄執は今の世も同じかもしれない。



*補足調査
肥後加藤氏に仕官したという内蔵助ですが、子孫はそのままシフトして細川氏に仕えたようです。確か『肥後文献叢書 別巻』の「肥後先哲偉蹟」に子孫が載っていたはずです。同じ本に吉良左京進の子孫という町氏も載っていたり……。(X-file特別捜査官:ぴえーる)


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