115「シリーズ長宗我部衰亡史・七人みさき―四国怨霊譚―」



吉良親実(1563―1588)

新十郎、大平左京進。長宗我部元親の弟吉良親貞の子。土佐国高岡郡蓮池を領したので蓮池殿とも呼ばれた。元親の後嗣決定をめぐって重臣久武内蔵助と対立。元親の怒りを買い、自刃させられた。激しい気性で幼少の頃より文武に秀でていたという。

◆四国ほど、霊が多く棲む国はあるまい。「死国」とも呼ばれるゆえんである。とくに怨霊では「日本国の大魔縁」とうそぶいた崇徳院が有名である。源平合戦前夜、伊豆の頼朝同様、この地に流されあえなく殺された源希義もいる。長宗我部氏もまた、四国平定の名のもとに多くの霊を産み出した。その多くが怨霊である。

◆長宗我部家の世継評定紛糾に端を発し、元親の意に逆らった比江山親興と吉良親実はただちに切腹させられた。両名の処断の背後には元親の寵臣久武内蔵助がいた。

◆吉良親実の墓は赤土を盛り上げ、笹竹でかこっただけの粗末なものだった。この墓から夜な夜な怪火が出るという噂がひろがった。

◆ある日の夕暮れ、贄殿川(仁淀川)の渡し守は舟を呼ぶ声を聞いた。西岸から呼ぶ声がするので彼は舟を寄せていった。しかし、人影はない。さてはこっちの方角ではなかったかと舟をかえそうとした時、どやどやと人が乗ってくる音がした。声がして「急いで向こう岸へ渡せ」と言った。だが、姿は見えない。渡し守は震えながらも東岸へ舟を渡すと、またどやどやと下りて行く足音がおこった。最後に下りた者が船頭に声をかけた。

声「これなるは吉良左京進どのにておわす。不義のやつばらに目にもの見せてくれんと、眷属引き具して大高坂城へ御越しあるのだ。また、帰りにもこの舟を召されるぞ。そのほうは恐れることはない」

◆贄殿川の船頭の目撃証言を皮切りに、吉良左京進の亡霊騒動は城下にひろまった。怪異情報は毎日のように口端にのぼり、ついには「なにが吉良の殿なものか。大方、狸にでも化かされたんだろう」と幽霊を信じない者同士が二人連れ立って真相究明に乗り出した眼前に、当の吉良左京進が行き会い「久しぶりだなあ」と声をかけてくる始末。二人は生前の吉良左京進に対してしたように下馬して見送っていたとか。

◆吉良左京進親実とその一党の出没は親実の墓の周辺にかぎられていたが、次第に大高坂城下をはじめ、現れぬ在所はないという状況になった。人々は「七人みさき」と呼んで恐れた。「七人みさき」とは、宗安寺真西堂、永吉飛騨守、勝賀次郎兵衛、吉良彦太夫、城ノ内太守坊、日和田与左衛門、小島甚四郎のことだという。いずれも吉良親実の家臣だったのだろう。親実自身は入っていない。親実を入れれば八人だが、その名前さえ口にすることを憚られたからだという。

◆「七人みさき」の風聞は当然、長宗我部元親の耳にも達していた。最初は笑ってとりあわなかった元親であったが、目撃情報が毎日のように寄せられるので次第に恐ろしくなってきた。彼は内心、一時の怒りで家臣を殺してしまったことを後悔していた。

元親「国分寺において、法要を営めば、怨霊どもも鎮まるだろう」

◆国分寺の大法要には大勢が集まった。元親も結縁に参詣した。読経がはじまると、吉良親実たちの位牌がグラグラ動き出し、勝手に仏壇から降り出した。そのあとを数々の供物が行列をなして従う。

元親「やや。これはどうしたことだ」

◆あっけにとられた僧俗男女を尻目に、吉良親実の位牌を先頭に行列は寺の外へ消えて行ってしまった。夢かうつつか、と人々がようやく我にかえった時、嘲笑うかのように天空から数十人の笑い声が降って来た。

◆法要も効果なし。元親は老臣たちの言を容れ、吉良親実を神として祀ることに決めた。そこへ突然スタスタと現れた八歳ぐらいの童子。元親に向かってこう言い放った。

童子「左京進を神に祝うとの評議、この上なき悦びなり。木塚の山に社を建て、祭りいたせば、霊験を見せよう。ゆめゆめ疑うことなかれ」

◆パニック状態に陥った元親は「突貫工事でやれーッ」と指示。日を経ずして、木塚山に社殿が築かれた。「昨日は亡国を示す一念の悪鬼たり、今日は国家安全の守護神となる、たのめやたのめや」と巫女が託宣すると、それ以後、親実や七人みさきの出没は聞かれなくなった。

◆吉良親実や七人みさきの怨霊譚は、吉良一族や遺臣たちの抵抗がいかに激しいものであったかを暗示するものとも考えられる。




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