112「暗君なき島津の母」



常盤(1471―1522)

新納是久の女。伊作島津氏第九代当主善久に嫁ぎ、一男菊三郎(忠良)ほか二女をもうける。文明十七年(一四八五)、実家と婚家が敵同士となったため、夫に従って伊作へ移った。明応三年(一四九四)、夫が家臣に殺害された後、島津相州家の運久から結婚を望まれたため、菊三郎を嗣子として伊作と島津相州の両家を相続させることを条件に運久に再嫁。学問に造詣が深く、菊三郎の精神修養に寄与した。法名梅窓院。

◆戦国大名としての島津氏といえば、貴久と四人のすぐれた兄弟、すなわち、義久、義弘、歳久、家久が有名である。「島津に暗君なし」という評に恥じず、それぞれが個性に応じた能力を存分に発揮した一族である。その彼等がバイブルともしていたものが、「日新斎のいろは歌」であった。日新斎は貴久の父・忠良の号である。中興の祖、といっていいだろう。

◆忠良を産んだのが、島津庶流・新納是久の娘・常盤。父は伊作島津家の善久であった。新納是久は同盟関係にある伊作島津家の久逸とのさらに強い結びつきを望んだ。その結果、是久の娘常盤は、久逸の息子善久に嫁ぐことになったのである。両家は手を取り合って飫肥へ進出した。戦いの前線で善久と常盤は結ばれたことになる。

◆しかし、伊作島津氏と新納氏の連合を快く思わない人物がいた。薩摩守護家の島津忠続である。守護家との軋轢が生じるのを嫌った久逸・善久は伊作へひきこもることになった。常盤は実家に戻されるのを拒否し、夫に従って伊作へ移った。彼女は夫との間にすでに三人の子をなしていたのである。

◆が、伊作に移って間もなく夫善久が家臣に殺害され、続いて舅の久逸も加世田の合戦で戦死してしまうという悲劇に見舞われた。二人の娘に続いてようやく授かった息子菊三郎はわずか八歳であった。伊作島津家は存亡の危機にたたされ、常盤は子供たちを抱えて庇護者を失った。

◆これに目をつけた男がいた。南隣りの田布施の領主島津運久(相州家)であった。常盤の亡き夫是久とは従兄弟の関係になる。最初は常盤も運久の強引な申し出を断った。しかし、運久は野心家のわりには心がひろい人物だったらしい。子供たちもいっしょに田布施へ来てほしいと言った。運久には実子がいなかったせいもあるかもしれない。これに対して、常盤はひとつの条件を出した。

常盤「将来、相州家と伊作家の家督をともに菊三郎が相続することを認めていただけますでしょうか?」

◆島津運久は常盤の願いを聞き届け、ようやく彼女をわがものとすることができた。文亀元年(一五〇一)のことである。一説には常盤を得たいがために、運久は自分の妻を寺に閉じこめて焼き殺してしまったともいう。

◆文芸好きの新納氏の血をひく常盤は、教育ママであった。いや、子供を教育しようという以前に自分自身が勉強好きだった。それが見栄やエゴに裏打ちされた現代の母親たちと違うところだろう。勉強好きの母親を、子も見習った。

◆常盤が菊三郎のために招いた教師とカリキュラムを紹介しよう。まずは伊作海蔵院の頼増と常盤の甥にあたる新納忠澄入道漁隠。両人は仏教儒学を教え、菊三郎に為政者としての心構えを徹底的に仕込んだ。また、常盤は七歳で薩南学派の祖桂庵玄樹から学んだ「論語」や「大学」のエッセンスを忠良に伝えた。忠良の薩摩家臣団の精神的教化のルーツはここにあった。

◆菊三郎が二十一歳になった時、島津運久は約束どおり、島津相州家と伊作家の家督を譲ってくれた。実父と養父の所領をあわせ治めた菊三郎は三郎左衛門尉忠良と名を改め、やがて力が衰えた守護家にかわって薩摩の旗頭となった。その息子貴久はついに薩摩国主となった。その栄華のはじまりを、常盤は目にすることなく世を去っている。

◆後世、薩摩の藩風をつくったのは、日新斎忠良の「いろは歌」であったが、それを産み出したのは、まぎれもなく学問好きのひとりの女であった。




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