109「幻の六文銭」



真田信綱(1537―1575)

源太左衛門尉、信利、則之。真田幸綱(幸隆)の嫡男。母は河原隆正の妹。武田信玄・勝頼の二代に仕え、信濃先方衆として二百騎の軍役を負担。三増峠合戦、三方ヶ原合戦などに従軍。天正二年(一五七四)に家督。翌天正三年、長篠の合戦で次弟昌輝とともに戦死した。法名信綱寺殿大室道也大居士。

◆真田にその人あり、といえば、幸村、昌幸と指を折り、池波正太郎の『真田太平記』ほか一連の真田ものでようやく脚光を浴びはじめた信之。これに信玄も果たせなかった戸石城攻略を成功させた弾正幸隆(史料上では幸綱)あたりまでが一般的な理解というものであろう。真田三代などと言えば、まずは幸隆・昌幸・幸村である。あるいは昌幸・幸村・大助か。

◆そこには、真田信綱は入らない。何しろ天正二年五月十九日に父である一徳斎幸隆が没し、家督を継承した後、翌年の五月二十一日には設楽が原の戦場の露と散ってしまうのだ。当主であった期間わずか一年。だが、数ある「武田二十四将図」でいちばん登場するのは幸隆、昌幸(武藤喜兵衛)らをおさえて、真田源太左衛門、すなわち信綱なのだ。江戸時代にはかなり認知度が高かったのではないだろうか。

◆しかし、武田二十四将に数えられても、なお有名な父と弟とに挟まれて、存在感の薄いこと。極言すれば、長篠合戦での武田軍の被害状況の大きさを認識させるためだけにその名が登場すると言ってもいい。ドラマなどで「真田源太左衛門どの、討死ッ」とセリフが入り、歯噛みする武田勝頼のアップが映されるなんてところだろう。まさに信長の戦略が図にあたって、いかに精強な武田軍団を粉砕したか、ということを視聴者や読者にわからせるためだけに存在する悲しき宿命。

◆それではかわいそうというわけで、信綱の知られざるエピソードを紹介したい。

◆信綱の正室は高梨家とも井上家とも言われていてはっきりしない。高梨家の出身だが井上氏の養女となって嫁いできたともいう。「高梨系図」によれば、高梨摂津守政頼の妹で名を於北と言った。姉には村上義清室於フ子がいる。

◆於北が信綱のもとにやってきて間もなく、実家高梨家は村上義清に従って武田信玄に敵対、越後の長尾景虎を頼った。信玄に仕える真田家との関係も微妙になった。

信綱「こうなった以上は、そのほうを離縁するほかはない」
於北「わたくしのおなかには殿の御子がおります」
信綱「不憫だがいたしかたない。生まれた子が男子ならば知らせてまいれ。女子ならば知らせるに及ばず」

◆今だったら抗議の嵐が殺到するだろう。あるいは本当に頼りになるのは女のほうとばかり、「男だったら知らせるな」とまったく逆になるだろうか。

◆さて、生まれた子は男子だった。が、どういうわけか父子の対面は果たせなかった。「世を憚って」とあるが、いかなる事情かはわからない。あるいは、対面直前に信綱が設楽が原の合戦で戦死してしまったのかもしれない。この男子は長じてツテを頼って加賀前田家に仕えていたが、ある時、前田の殿様が野駈けの折に、この者の袖の紋に気づいた。六紋銭だった。仔細は聞かず、前田の殿様は「あの銭の数だけ知行を与えてやるように」と指示したため、六百石を貰うことになったという。「見夢雑録」にある真田余与右衛門という者のことだろうか。この前田の殿様が誰であったか判然としないが、おそらくは大坂冬の陣真田丸の戦いで痛い目にあわされた前田利常ではなかったろうか。

◆信綱の正室於北の塚は小県郡中原村広山寺の客殿の裏手にあるという。広山寺ははじめ十林寺と号していたという。やや古い地図では一帯は十林寺と呼ばれ、現在でも信綱寺から少し離れたところに廣山禅寺がある。於北の塚はここにある。

◆真田信綱は天正八年に亡くなった後妻といっしょに信綱寺に眠っている。於北は少し離れてひっそりとそれを見守っているのである。二人を隔てているものは、R144。於北の没年はわからない。


*補足調査
「村上義清室於フ子」という表記ですが、古文書の表記に忠実に書かれたのでしょうが、これは「於フネ」でいいんじゃないかと思います。子=ネはしばしば古文書で出てくる表記ですが、普通今はこれを「フネ」とは読まないので、読む人が混乱するのではないかなあ・・と。(X-file特別捜査官:中根東竜)


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