108「戦国マーメイド伝説」



松平家忠(1555―1600)

又八郎、主殿助。十八松平のひとつ深溝家に生まれる。父は伊忠。母は鵜殿長持の女。徳川家康に従って対武田戦で戦功をあげる。浜松城をはじめとする遠江諸城の築城にも携わった。天正十八年(一五九〇)、家康の関東入部時、武蔵国忍一万石に封ぜられた。のち下総国上代に転封。慶長五年(一六〇〇)、伏見城西丸を守って石田三成方と戦い、戦死した。天正五年から文禄三年までを記録した「家忠日記」を残す。連歌を得意とした。法名賀屋源慶。

◆人魚の歴史は非常に古い。古代中国の『山海経』が人面魚身のグロテスクな様子を紹介しているし、わが国では七世紀に出現記録がある。

◆人魚といえば、ほとんどの方がアンデルセン童話の悲劇のヒロインを思い浮かべることだろう。デンマークには人魚姫の像があり、観光名所にもなっている。だが、日本における人魚の聖地は内陸部の近江国なのである。推古天皇の御世に近江国の蒲生川で見つかった。『日本書記』推古天皇二十七年四月条に記されている。同年七月には、摂津国で漁師網にかかった。海だったのか河川だったのかはわからない。これを聞いた聖徳太子は不吉の前兆と断じたが、日本史上では吉祥とされたり、不吉なものとされたり、扱いはさまざまだったようだ。

◆琵琶湖周辺で獲れたのだから明らかにジャパニーズ・マーメイドは淡水に棲むのである。本物か否かの論議は別にして、日本各地に伝わっている人魚のミイラ(高野山学文路の苅萱堂のものなどが有名)は、みな眼窩がくぼんで目玉が露出して、鋭い牙を備えてかなり獰猛なつらがまえをしている。平安時代には伊勢で三匹も捕まって、平忠盛に献上されたが、忠盛は気味悪くなって返してしまったそうだ。しかも返却された人魚は漁師たちが食べてしまったという。

◆さて、戦国時代にも人魚について記録した者がいた。徳川家康の家臣松平家忠である。これは『家忠日記』の天正九年四月条に書かれている。しかも、イラストつきだ。顔つきからしてどうやらメスらしい。ちなみに貝がらでバストを隠してはいない。

正月廿日二かんてんちへあかり候、安土ニ而食人をくい候、聲ハとのこほしと鳴候、せいハ六尺二分、名ハ人魚云、

◆安土といえば、織田信長のお膝元である。本能寺の変は天正十年六月二日。「とのこほし」は「殿恋ほし」か。鎌倉時代以降、人魚出現は戦乱の予徴と考えられることが多かったが、一月二十日に、琵琶湖から「乾天地」にあがって、人を食った人魚は、一年半後に迫った信長の死を予告するものだったのであろうか。残念ながら『信長公記』ほかの諸書には記録がない。

◆人魚が出現した天正九年正月二十日といえば、信長が明智光秀に命じて京都御馬揃えの下知を下す三日前にあたる。いわば、信長の絶頂期にあたり、滅亡の予兆であるとはとらえがたい。もっともこれより先、毛利の政僧安国寺惠瓊が例の予言めいた書状「信長の代三年五年はもたるべく候。さ候て後、高転びにあおのけに転ばれ候」と国許へ書き送っているので、信長の恐怖政治への将来不安という風潮はあったかもしれない。

◆人魚が発したという「とのこほし」が本当に「殿恋ほし」であれば、アンデルセン童話のように安土の領主である信長に恋焦がれているのであろうか。それとも、人を食ったという人魚は信長をも餌食にしたいと言っているのか。だが、家忠の描いたイラストを見るかぎり、信長はおろか、とてものこと人間をとって食らうような獰猛な様子はない。眠たげな顔をしたユーモラスな表情をして、友好のしるしであるかのように片腕をあげている。

◆この間、家忠は牧野原城の在番を勤めていた。したがって、日記のイラストは家忠が伝聞によって描いたものである可能性が高い。どこかの寺の寺宝として伝えられていたミイラを見て、人形の生前の姿を想像して描いたのだろうか。しかし、家忠のイラストでは王朝人のような引き目である。今日伝えられている人魚のミイラとは似てもにつかない。おそらく、何らかの手本を元にしたのではなく、家忠のイマジネーションがこのように描かせたものだろう。

◆だが、この人魚のイラストを描いた当時の家忠の精神状態は尋常ではなかった。家康の安土上洛準備のため、信長へのみやげとして家忠には馬鎧三懸が当った。信長に献上するとあって、家康主従も神経質になり、不出来なものは作り直し、完成品には軍学者宇佐美某を遣わして様式などを点検させる念の入れ様であった。そのようなさなか、家忠は安土に人魚出現のニュースを聞いた。彼はよろこばしい瑞兆として想像上の生き物を好きなイラストで描こうとしたのであろうか。それとも信長への精神的重圧が無意識にうわさの化け物を書き散らしたのであろうか。

◆安土にあらわれたマーメイドは食べられてしまったのだろうか。それともミイラとなってどこかの寺で埃をかぶってでもいるのだろうか。

おいち「お姉さま、お姉さま。兄上さまの日記にまた変な絵が描いてあるわよ」
ちいは「勝手に読んだらまた怒られるわよ」
おさち「やだあ。何これ。ミノムシかしらね」
おいち「違うわよ。きっと、ちいは姉さんが簀巻きになっているんだわ」
おさち「きゃあ。やだあやだあ」



※ちいは、おさち、おいちはいずれも松平家忠の妹。


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