107「ポイントカードは仁義礼智忠信孝悌!」



里見義堯(1507―1574)

権七郎、刑部少輔、。法号岱叟院正五。天文二年(一五三三)、里見本家の当主義豊によって父実堯を殺害されるが、翌年、北条氏綱の後援で義豊を討って復仇し、里見氏の家督を相続する。はじめ安房国稲村・滝田両城に拠ったが、のちに上総国久留里城を根拠地を移した。天文七年、足利義明とともに下総国府台で北条氏綱と戦って敗れる。以後、安房・上総両国を勢力基盤に、上杉謙信などと連携して北条氏と戦い続けた。永禄十年(一五六七)、三船台の合戦で北条勢を破り、下総進出を図るなど一時優勢にたち「里見家中興の祖」と称えられた。

◆ポイントカードというのがだいぶひろまってきた。単に安く売るというのではなく、一度買ってもらったお客を逃したくない、次も自分のところで買って欲しい。そのために今回の購入分のポイントを次回の買い物に活かせるという顧客囲い込み合戦が熾烈である。筆者も電器店で2枚、DPEで2枚、航空会社で1枚持っている。

◆つい先日、1枚が失効しているのがわかった。ショックだった。1万数千円分あったと思う。次回の買い物にあてようとすると必要な時までカードは眠ってしまいがちになる。そんな時、手早く何かの特典に引き換えができたほうがむしろよいのではないか。

◆航空会社のマイレージなどはさして得であるとは思わないのだが、航空券のほかにさまざまな景品と交換できるのがミソだ。

◆感状というのは、戦国時代のポイントカードであったかもしれない。特に形あるものと引きかえられるわけでもないが、他家へ仕官する際の「武器」にもなった。場合によっては席次を争う際のバロメーターともなった。武神と謳われた謙信の感状はなかなか貰うことができず、一枚が通常の感状の数枚分の価値があったといわれている。

◆安房の里見義堯も家中で戦功のあった者たちに感状を贈っていた。が、安房は狭いので感状ばかりいくつも持っていても土地を与えられるのぞみは薄かった。ある時、家臣たちが要望した。

家臣一同「われわれは親の代より数度の合戦で手柄をたて、感状をいただいてきましたが、あまり得をした気分になりません。それより、手柄に応じてお正月の礼を一位ずつ許してもらえないでしょうか」

◆これには説明がいる。仁義礼智忠信孝悌・・・といえば八犬伝だが、里見義堯は元旦の祝賀の礼に「片肴」「両肴」「片茶」「両茶」「敷居内外」「居礼」「立礼」といったものを定めていた。それぞれの内容がどんなものであったのかは明確ではないから、わかりやすく「伏姫御膳」とか「八房弁当」とか名づけてもよろしい。伏姫や八房が何のことだかわからない方は、松竹梅でも結構だ。感じだけつかみとっていただければと思う。おそらくはそれまで家中の序列で礼位を決定していたものだろう。それを戦功次第で許可しようという成果主義人事に変更したわけだ。

◆こうなると異常なまでに奮起する武士もあるもので、平侍の山田豊前という男は一番鎗の功で「片肴」の礼。翌日の合戦では岡田左京亮という敵将を馬上から組んで落として「両肴」の礼。その後の合戦でも鳥井左衛門尉という剛の者を手疵負いながら討ち取って「片茶」の礼を許された。「あの平侍の山田が」とみんなも羨ましがり、各々、争って武功に励んだという。

◆元旦祝賀の礼の序列もそうだが、義堯は儒教の教えにも傾倒していたらしい。彼の名の一字「堯」は古代中国の帝堯からとったものとされる。また、系図にはあらわれないが、彼の子供に義舜という者があったことも判明している。舜は言うまでもなく、堯から帝位を譲られた舜にちなんだものである。

◆まあ、裏返せば、血塗られた里見家の権力闘争を中国聖王の名にかりて正当化し、言うことを聞かぬ家中のわがままを「礼」によって統率した、ということになるのであろうか。生前、義堯の目論みがどの程度効果をあげたかわからないし、あるいは軍記ものの記すところゆえ、真偽のほども危ぶまれるのだが、後世、仁義礼智を重んじる義堯と里見の家臣たちの記述を滝沢馬琴はどこかで目にしたのかもしれない。



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