105「山本勘助はいなかった」



山本管助(?―?)

武田信玄の家臣。弘治三年(一五五七)、市河藤若のもとへ信玄の使者として赴いている。『甲陽軍鑑』で活躍する天才的軍師山本勘助は、彼に仮託された架空の人物であるとされる。

◆このXファイルに山本勘助を出そうか出すまいか、実は非常に迷った。いや、今でも迷っている。勘助は面白いエピソードには事欠かない。どれを紹介しようかと迷っていたくらいだ。Xファイルでは、一応「たしかに実在した人物」を俎上にしようと決めた。それでも結構、あやしげな人物はすでに出してしまっている。だが、山本勘助は別格だった。その知名度やキャラクター性はもはや武田信玄や川中島合戦を描く際に欠かせないもの、お約束と化してしまっている。勘助登場に躊躇したのは、その「実在説」へ抱いた疑念だった。

◆学者らは言う。一九六〇年代、釧路で発見された「市河文書」に「くわしくは山本管助が口上で申し上げる」云々といった文書があり、信玄の時代に「山本管助」なる人物がいたことは疑いない。昔は当て字などは日常茶飯事であったから、この「山本管助」は「山本勘助」と見て間違いあるまい――。

◆ちょっと待って欲しい。本当にそれでいいのか。

◆架空人物説を説く奥野高広氏を除けば、管見では、「市河文書」の「山本管助」イコール「山本勘助」にはっきりと疑義をはさんでいるのは、笹本正治氏だけである。あとは「『甲陽軍鑑』が説くような軍師ではなかったが、信玄の使者として他家へ派遣されるほどの重要な役割であった」とか「実在はしたが軽輩の者だった」という譲歩つき(?)の意見がある程度で、ほとんどが「市河文書」で山本勘助実在!と大して検証もせずに決めつけてしまっている。

◆「管」と「勘」。些細なようでいて、問題は案外重大だ。著名な武田研究者の中には「こうした疑問自体がおかしい」と言う方もいる。健全な研究姿勢とは言えない。山本管助は信玄が派遣した重要な任務を与えられた使者である。その自分の使者の名前をいい加減に当て字で記すだろうか。たしかに武将の名前や土地の名前など、いい加減な字をあてる例は多い。だが、それは軍記や聞書きなどであって、きちんとした書状ではむしろ珍しいのではないか。音のみを聞いた第三者が「たぶんこういう字だろう」とか「この字でも当てとこう」などと書くのならば、わかる。そういう例を筆者は知っている。しかし、この山本管助の場合は、ほかならぬ主人の信玄(の指示を受けた右筆)が書いているのだ。自分の代理人の字を等閑にするほうがおかしいのではないか。

◆次に山本勘助の実名「晴幸」についてであるが、察するにこれは武田晴信の偏諱であろう。そして、晴信すなわち信玄は、この「晴」の一字を元服の際、将軍足利義晴から拝領している。ここでおかしい、とは思えないだろうか。将軍から頂戴した一字を、勝手に家臣(しかもたかだか侍大将である)に与えられるものだろうか。武田二十四将中、「晴」の名を持つ人物は勘助以外ひとりもいない。高坂、甘利といった人々が称したともいわれるが人口に膾炙してはいないし、確実な文書の裏づけもない。たとえば将軍足利義輝の一字を拝領した上杉謙信が「輝」の一字を家臣に与えたであろうか。毛利輝元、伊達晴宗、伊達輝宗、みな将軍からの偏諱はおのれのみであった。入道号の道鬼というのも何やら作り話めいている。山本勘助晴幸、入道道鬼の名は、後世の作為であろう。

◆もうひとつ、気になることがある。『甲陽軍鑑』における山本勘助の風貌だ。彼は隻眼で、跛であり、非常に醜い。しかし、天才的な軍略を内に蔵しており、そのギャップがキャラクターに深味を出している。だが、そのような醜い者を使者として派遣するだろうか。ここに、筆者は「山本勘助は山本管助たり得ない」という理由を見出すのである。実際の山本管助はおそらく隻眼でも跛でもなかったであろうし、信玄も一目置くほどの軍略家でもなかったであろう。これをもって、山本管助は山本勘助にあらず、と言うことにはならないだろうか。

◆たぶん、「市河文書」に出てくる山本管助は軍師山本勘助のモデルだろう。それはいい。甲斐武田家臣に山本一族がいたこともほぼ確実だ。だが、現在のところ、実在したのは山本管助であって、山本勘助ではない。ここははっきりすべきであろう。

◆当の山本管助は弘治年間と推定される「市河文書」の中に登場したきり、その消息は知れない。案外、山本勘助同様、川中島の合戦で戦死したのかもしれない。




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