099「シリーズ明智遺臣団・光秀と勝家の間で」



柴田勝定(?―?)

源左衛門尉、勝全。柴田勝家に仕え、北庄城の留守居を任されるなど重用される。その後、明智光秀に仕え、天正十年(一五八二)六月、山崎の合戦で敗退。羽柴秀吉に降服し、堀秀政に仕えて、旧主勝家と賤ヶ岳で戦う。天正十八年、小田原攻めに従軍。堀秀政隊の先陣をつとめる。慶長五年(一六〇〇)、福島正則に召抱えられ、三千石を領すという。

◆不思議である。本能寺で織田信長を殺した明智光秀が、弔い合戦を挑む羽柴秀吉らの軍勢を山崎に迎え撃った時。その明智方に柴田源左衛門尉勝定という男が混じっていた。名前のとおり北陸方面指令官にして織田宿老ナンバーワン柴田勝家の家臣だった。柴田姓を与えられているところからも譜代か非常に重用された人物であったろうと察せられる。

◆本能寺の変には光秀の背後に黒幕がいたかどうか。いたとしたらそれは誰か、ということで朝廷、公家、堺衆、伊賀者、秀吉、家康、長宗我部元親といろいろあげられる。もちろん、勝家の場合は越中において上杉勢と対峙していたことは確かであるから、実行犯という説は成立しない。しかし、明智光秀と結んで間接的な協力者であったか、あるいは黒幕的存在であったか、については論じられることもほとんどない。光秀の謀反とその後の秀吉の躍進によって、いちばん貧乏籤をひいたのは彼だからだ。

◆しかし、光秀と勝家をむすぶ線は意外に太い。まず、信長の弟信行(信勝)の遺児をひきとったのが勝家。その後、日根野法印の手を経て、光秀の娘婿となり、その与力となった。すなわち津田信澄だ。次に信長の上洛にともない畿内管領ともいうべき地位に勝家がつき、続いて光秀に引き継がれたこと。そして、光秀第二の故郷ともいうべき越前を勝家が領したこと。越前攻略には光秀も合力している。統治について何らかの「引き継ぎ」もあったのではないだろうか。

◆だが、きわめつきは、勝家の重臣柴田源左衛門尉勝定である。彼の妻は光秀の家老斎藤利三の姉妹。しかも最初に妻となった姉が早世した後、その妹が源左衛門の後妻に入るという結びつきの強さだ。この後室は六十五歳で没した。法名寿院といい、蜷川家文書(『史籍雑纂』)の中に「じゆいん」として登場する。もっとも源左衛門がこうした閨閥を利用して、反りのあわない勝家のもとを出奔し、光秀の家臣になったのだという説明も可能だ。だが、他家の侍が主人と諍い、光秀のもとに仕えるというのは、ほかにも斎藤利三などの事例がある。新参者の光秀の配下は当然、外人部隊のようで実力本位だったずだ。武功者には居心地がよかったのかもしれない。が、源左衛門尉勝定の場合は斎藤利三の話の焼きなおしと考えられなくもない。

◆だが、事はそれだけでは済まない。本能寺の変勃発直後、織田氏に圧迫されていた毛利家や上杉家がキャッチした情報は「光秀や津田信澄、柴田勝家らがしめしあわせて挙兵した」(『萩藩閥閲録』)、「津田信澄・明智光秀ら七人の主だったものが謀反した」(「六月十九日付直江兼続宛湯原国信書状」)というものだった。

◆勝家の動機というのも無視できないであろう。前年、旧悪を罪状とされて林佐渡守と佐久間信盛が追放されている。最初の主君織田信行の遺児・津田信澄をたてると知ったら、勝家の心は激しくゆさぶられるのではないだろうか。

◆柴田源左衛門は、光秀滅亡後、掘秀政に仕え、その子秀治について越後へ移った。この時に青木山城主となっている。関ヶ原の合戦直前に、上杉景勝の後援による一揆が越後国中におこった。源左衛門はこれと戦った。関ヶ原戦後は福島正則に仕官したといわれている。時期はわからないが、「福島正則家中分限帳」には、三千石を知行したとある。

◆また、賤ヶ岳合戦の時、前田利家の家臣村井長頼が堀秀政の隊に先手として働いていた源左衛門に助けられて危地を脱したという。村井と源左衛門とは以前から音信をかわす仲であった。戦後、源左衛門は自分の息子を村井の斡旋で小姓として利家に仕えさせている。これは柴田久太夫といい、五百石の知行をとり、金沢で没したという(「村井重頼覚書」)。久太夫は斎藤利三の孫にあたるのであろうか。そうだとすれば、加賀百万石の家中にも光秀遺臣の末裔がいたことになる。





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